2011年01月26日

「水域」を読んでみた。

「蟲師」のころから漆原友紀っていう漫画家は気になってて、現実とファンタジーが奇妙に交錯するあの世界観はすげえなと思っていたんだけれど、表紙買いしてしまったこの「水域」上下巻はまた凄かった。

まず、表紙買いしたぐらいに惹かれた表紙のカラーイラスト。
上巻は頭首工か堰と思われる河川構造物。。
下巻は吊橋。
これがあーた、漆原氏のあのタッチで描かれてるわけで。
これだけでもステキ過ぎる。

内容については、あえて詳細を語る野暮は致しますまい。

現代日本を舞台にしてるのにこれだけのファンタジーを描けるのかーという驚き。
このテーマを扱ったら、凡人は結末で白黒つけたがると思うんですよ。
そういうテーマを選択しながら、はっきりとした色をつけずに(つまり余り政治性を帯びずに)エンディングに着地させる力量というかバランス感覚というか、これはもう神だなとか思ったり…
だからもしかしたら、一部の白黒つけたい人には物足りなさを感じさせるかもしれないと思ったり。


理論武装して読んだら面白くありません。
表紙に興味を持たれましたら、ぜひ手に取って読んでみてください。


水域(上) (アフタヌーンKC) [コミック] / 漆原 友紀 (著); 講談社 (刊)水域(下) (アフタヌーンKC) [コミック] / 漆原 友紀 (著); 講談社 (刊)
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2009年07月03日

鉄道だって言いたいことはあるんだ。きっと。

擬人化という手法は、多分日本の文化に非常にマッチしているんだと思う今日この頃。
古くは日本書紀や古事記だって、自然の驚異について擬人化して記録したものと読むこともできるわけで。
キャラクター化、擬人化はだから、違和感なく受け入れられる心理的土壌が日本人にはあるに違いない(きっぱり)。

それにしても、こう来るとは思わなかった…

「鉄道擬人化」である。

京浜東北高崎埼京山手中央宇都宮が。
東京メトロに西武に東武の各路線が。
動くんである。喋るんである。

かなりデンジャラスなギャグも散りばめられているけど、鉄道なんか興味ないって人でもこれは楽しめると思われ。

個人的にツボだったのがJR武蔵野線の扱い。
うん、確かによく止まったよね。雨でも風でも雪でも。ついでに15年くらい前、伏流水で一駅水没したよね…とか頷きながら読みましたですよ。

作者様。

スペーシアとりょうもう、TJライナーを入れて新ネタお願いします!
あ、レオライナーとレッドアローも忘れちゃいやですよ〜(なんかネタ的には泥沼な気もするけど)。



青春鉄道 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

posted by 夕顔 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月20日

鉄ヲタ女子に未来はあるか

今更ではありますが。
どうも皆様明けましておめでとうございます。冬眠から目覚めました夕顔でございますこんばんは。

気がついたら年は明けてるわ立春は過ぎてるわ(汗)
しまいにゃ花粉症の症状まで絶好調で出てくる始末。

こうして人は年をとってゆくのだなあと実感するしだいで(違)


さて。
都合の悪い事はスルーの方向で、いきなり本題ですが。
社会現象すら起こしたベストセラー「負け犬の遠吠え」で有名な酒井順子女史の近刊、「女子と鉄道」を読んでみました。

のっけから帯の「茶道、華道、鉄道」というコピーに微妙に脱力。
道しか合ってないってばさ(汗)
内容は、鉄分やや薄めな鉄道エッセイ。
鉄道に関する話題が中心になってはいるものの、これならば非鉄の方でも先入観なく読めるでしょう。

酒井さんも指摘するように、鉄道は誰にでも楽しめる趣味です。
アマチュア無線のように免許もなければ、乗馬のようにレッスン代もかかりません。
それに場所を選びません。
たとえばダイビングは陸ではできませんが、鉄道は屋内の妄想だけでも楽しめます(自爆)

鉄道とは、ある意味社会そのものであります。
それゆえ、鉄道趣味と一言で言っても、その内容は実に多岐にわたります。
よーするに、鉄ヲタあるいは鉄道マニアと一括りにされる趣味嗜好を持つ者たちであっても、視点も目指すものも同一ではないということですね。
いわく、撮り鉄(写真)、録り鉄(発車音や駅の発メロ、モーター音などの録音)、乗り鉄(ひたすら乗る。乗りつぶしを企画するツワモノも存在する)、盗り鉄(放置車両を中心として、部品を取り外して自分のものにしてしまう馬鹿ども。明らかに犯罪なので良い子は決して真似するな!つか、そーいった犯罪行為のせいで世間一般における鉄道趣味の評価が総合的にマイナスになってるんだよ。貴様らに鉄道マニアとか鉄ヲタとか鉄道ファンとか名乗る資格はないからな!!)など。
そのほかにも駅弁マニア、ノベルティ収集に命をかける者、記念切符となるとどんな地の果てでも購入に行く者、パスネットやオレンジカードに給料の半分以上をつぎ込む者、鉄道模型でひと部屋つぶす者など、ヲタの数だけ方法論があるといっても過言ではありません。

酒井さんは、文中であまり鉄用語を使いません。
だから鉄分が薄めという表現をしたのですが、鉄用語がわからなくても鉄道は楽しめるということを伝えてくれるナイスな本です。

ただ、どうしても異議を唱えたいことが一点あるのですよ。

酒井さんは鉄道趣味がマイノリティであると認識しているようで、鉄道で旅するということが「用事もないのにただ鉄道に乗る」ことである以上、「ただ地元の方々に迷惑をかけないようにしつつ」「ちょっと恥ずかしそうにボックスシートに腰をかけていればいいのではないか」とおっしゃる(鍵括弧内「女子と鉄道」酒井順子著・光文社刊より引用)。
ここにどうしても、引っかかってしまうのです。

わたくしは、鉄道趣味がマイノリティであることは認めます。
だけど、恥ずかしく思う必要はないと思うのです。

腐女子とかアキバ系とかいうカテゴライズされる人々がいます。
腐女子の方々は、やおいという形式の二次創作を通して「萌え」を共有する。
アキバ系男子は、萌えを消費する。

いまや認知度はかなりのものになり、一応市民権を得たように見えます。
しかし、アキバ系や腐女子を対象にしたマーケットも存在するとはいえ、彼ら彼女らがマジョリティであるかといえば、そうではないでしょう。
腐女子が世界を左右することはないだろうし、アキバ系が政治の中枢に進出することもない。

だけど、彼ら彼女らは「申し訳なさそうに」アキバやブクロの乙女ロードの片隅で恥ずかしそうにしているでしょうか?

じょーだんじゃない。実に堂々と歩いているじゃないですか。

鉄ヲタはどうでしょう。

関口知宏の鉄道紀行番組がヒットし、くるりが「赤い電車」を歌おうとも、鉄ヲタ(マニアでもファンでも同義)がメジャーになることもまた、ないでしょう。

そう、鉄道という趣味は、二次創作や「萌え」と同様、サブカルチャーの1カテゴリでしかないし、それ以上でもそれ以下でもありません。

鉄ヲタは鉄道に対する愛だけを共通項に、今日も鉄道に揺られる(笑)
それでいいのだと思うのです。
いちいち恥ずかしくなってたら、マイノリティの上塗りである鉄ヲタ女子は、存在すら許されなくなってしまうでしょう。

だから胸張りましょうよ。

「鉄道大好きですが、何か?」
そう言って堂々とボックスシートで車窓を楽しみましょうよ。ね。

posted by 夕顔 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月11日

DVと虐待

信田さよ子氏の「DVと虐待」(医学書院)を読んでみました。

あたりまえの親子関係、そしてあたりまえの夫婦関係が、どれだけあたりまえのものでないのか、ということが嫌というほど判る本です(←文章構造がややこしいな)。

たとえば、わたくし達の世代が思春期を迎える頃に盛んに取り沙汰された「家庭内暴力(思春期の少年少女による、主に親に対する暴力)」とか、昨今各メディアを賑わす「児童虐待」とか。最近も起こった「親殺し」とか。

そんなニュースがなぜセンセーショナルに扱われるのかといえば、それらはみな「許されない暴力」だからなのだと信田氏は書いています。

従来の(古典的な、と言い換えてもよい)家族観では、子は親に従うものと規定され、それに暗黙の了解が存在していました。
親⇒子の図式で示される、厳然とした支配構造が存在するという前提においてはじめて、支配者に逆らう被支配者という構図が成り立つ。
支配は絶対のものなのに、それに逆らう。暴力を振るう。
被支配層からの、それはいわば反逆。
反逆だからこそ許されないのです。
許されないからこそ「家庭内暴力」という言葉になるのでしょう。
家庭の中には親と子だけでなく、兄弟や夫婦という関係性もあるにもかかわらず、です。

穿った見かたをするならば、「家庭内での下克上はありえない。家長の言うことには従っておけ」という家長からのメッセージだとも取れなくはないですよね?

翻って支配者から被支配者への、親から子どもへの暴力はどうかというと。
古来(特に日本では)、愛のムチという名前でそれは肯定され、それどころか美化されさえしてきているのはご承知のとおり。
しかし、支配の特権は家長たる父のみに認められたものだったのでしょう。
母はただ無条件に子どもを慈しみ愛するものと決められていたのです。
母性本能という、実際に母になったものからみれば侮辱以下でしかない単語で子どもへの愛情を規定され、強制されているのが母なのです。

本能とは。
生まれついて持っている能力という意味以外を寡聞にしてわたくしは知りません。
それは基本的に個体維持本能と種族維持本能ぐらいが、そう呼ぶに値する能力でしょう(ちなみに、生物学の領域では基本的に本能という表現を使用しません。生得能力によるものと考えられる行動のみを限定して「本能行動」と称するのです。よーするに生物学じゃ認められてない考えなんですよね、本能って)。

異論はありましょうが、経験上、出産直後に子どもへの愛着はわかないとわたくしは断言します。
無論、庇護なしには一瞬の生命維持すら危うい存在に憎しみなど持つ謂れはありません。
でも、新生児室の中のわが子に対して、この子を守らねばならないという本能につき動かされるような経験はついぞ持てませんでした。
わたくしの場合、わが子に対しては「お互いよく頑張ったよね」という感覚が強かったですね。
陣痛で苦しんだのはたった5時間、難産だったお母様方からは剃刀でも送られそうな超安産でしたけど、それでも痛みのあまりに吐く程度には、わたくしの陣痛もきつかったです。それをともにくぐり抜けた同士、という感覚。わかるかなぁ。
そして退院後、ほにゃほにゃで泣くしかない子どもが手の中にいる事実に、まず途方にくれました。
もちろん子どもが産まれることを頭ではきちんとわかっていたし、ベビー用品なんかも揃っていたにもかかわらず、です。
母たる自覚が生じたのは、逆説的ですが、育児をしている己を自覚してからでした。
母性本能があるのならば、そしてそれが女性の生得本能であるというのならば、わたくしは見事に欠陥品だというわけで。
周囲のママ友達はみんなそうだったようなのですが、どーなんですかね。
たまたま1995年11月第一週あたりに現さいたま市で出産を迎えた女性のみ、宇宙からの電波の影響とか、太陽黒点の活動低下とか、大殺界とかの理由で母性本能が働かなかったとかでもいうんですかね(笑)
母達の普段の居住地も出生地も結構ばらばらでしたけどね。

閑話休題。

とにかく日本には、エビデンスのない(断言しちゃうよ)母性本能信仰があることは事実。
子どもが小さいうちは母親は家にいるべきだとか、いわゆる3歳児神話なんかもこの信仰から派生したもんだと言っても過言ではないと思う。
信田さんも書いているけど、戦争で死んでいった若者は、天皇陛下万歳ではなくお母さんと叫んだという。
どう考えてもお釈迦様の天上天下唯我独尊と同じ類の捏造(といって悪けりゃ創作と言い換える)だと思うんだけど、それがすんなり受け入れられてしまう土壌がこの国にはあるのだ。それは認めないわけにはいかない。つか、認めてくれなきゃ話が前に進まない(笑)

ここで話は本題に戻る。
母は子どもを慈しみ無条件で愛するものと相場が決められている。
なのにその母が子どもに暴力を振るう場合。
「本能」に逆らう行動なわけだから当然の帰結として、それは虐待という名前を与えられるわけで。

話をさらにややこしくするけど。
アダルトチルドレン(AC)という存在をご存知でしょうか。
現在の自分の生き辛さが親との関係に起因すると自ら認めた人、というのが本来の定義(念のためいうけど、概略ですからね。アウトラインよ?あくまでも)。
日本では単語だけが一人歩きした結果、石を投げればAC(を自認する人)に当たると言っても過言ではないと思います。
しかも中途半端な理解がACへの誤解を深め、カムアウトした人の中には、まるでACであることがすべての免罪符であるかのように振舞う大勘違い者もいるわけで。
私はACなんです。だから私がこんな性格なのは親が悪いんです。私はあなたを傷つけたとしても責任は取りません。だって私はACだから。全部親が悪いんです。
これ、すべて実際に自称ACの元友人(縁切りました)に投げつけられた言葉。
この経験故にわたくしは、自らがACだとカムアウトするどころか、ACという概念自体に憎悪さえ覚えていました(あちこちのブログを覘いた感想では、結構こういう人多いみたいね。勘違いな振舞いの自称ACも、その「被害者」も)。

で、そっちの勘違い理解に歩調をあわせるように「親のせいにするのは本人の自立を妨げる」とか「親がかわいそう」とか、最終的には「甘えだ」のひと言で切って捨てる論調が、「なぜか(あえてなぜかと言うぞ)」男性を中心に根強くある。


被支配者たる子ども。そして家長のもとで母性本能をベースに慈愛深く生きる母。
なおかつ家族は互いに支えあって生きているのだという、この一見矛盾に満ち溢れた幻想に縛り付けられた「家族」という概念。
そして、生きにくさを親との関係に起因すると認めるのは甘えだという批判。

これは。
この三題噺は一体、何を意味する??


信田氏はここで「DVという暴力の存在」をぽんと読者に投げてくる。

DV=ドメスティック・バイオレンス。
配偶者間の暴力、それも多くは夫⇒妻の暴力である。

家庭内暴力は、そして児童虐待はセンセーショナルに扱われる。
家庭内暴力に悩んだ親が子どもを殺した場合は悲劇として語られ、むしろ親は同情の対象となる。

じゃあ、DVは?


信田さよ子氏は臨床心理士として高名だが、ストーリーテラーとしても最高の腕を持っていると思う。
カウンセリングを生業とする以上、クライアントの相談内容を「ナラティヴ(=物語化)」として再構築する場も一再ではないだろうから、当然といえば当然なのだけれど。

DVとはどんな暴力なのか。とか。
近代的家族がいかに幻想の上にしか基盤を持っていないのか、とか。
この本を読めばきっと、よーくわかります。


DVと虐待
posted by 夕顔 at 11:29| Comment(3) | TrackBack(2) | 本の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

かもすぞジャパン!

通勤途中で「もやしもん」読んでて吹き出しそうになりました。夕顔です。
ということで、今更ですが「かもすぞジャパン」賛同します。

電車でマンガ読みながらニヤニヤしてる三十路女性というのも相当痛い気がします(痛いというより気持ち悪いですか、そうですか)が、わたくしのマンガ好きは今に始まったことではありません。既に仕様です(←開き直るな)。


ご存知の方も多いかと思いますが、「もやしもん」は某農大を舞台に繰り広げられる「菌マンガ」の草分け的存在です。って、菌マンガっつージャンルがあると仮定しての話ですが。
主人公は肉眼で菌が見えるという特技(体質?)を持つ、沢木惣右衛門直保(さわきそうえもんただやす)。
古風な名前ですが大学一年生、ちなみに惣右衛門は実家=種麹屋の屋号だとか。タイトルにも出てくる「もやし」とは種麹のことだそうです。
肉眼で見えるという設定だけあって、マンガの中に実に多くの菌たちが登場するのですが、これがまたどれもこれもカワイイんです。
一番登場頻度が高い菌は、直保といつも一緒にいるA・オリゼー(黄麹菌)ですが、わたくし的には、なぜかチョンマゲ結ってて「ござるか」「ござるよ」なんて会話をしているL・ヨグルティという乳酸菌がとても愛しいです。
未読の方はぜひどうぞ。一緒にかもしましょう。

あ、作者石川氏のHPはこちら
かもすぞジャパン!で検索すると、全国のかもし仲間(?)の活動がわかるかと思います。


と、楽しくかもした後でちょっとシリアスに。

昨今は抗菌ブームだそうで、巷にはあらゆる抗菌グッズが溢れかえっています。
このマンガを手にする前から思っていたことではあるのですが、「何でもかんでも抗菌」という潔癖さは、生物の「態度」としては異常だとしか言い様がないように感じてなりません。
むろん看護師として、手洗いの重要性や創部の清潔を守ることが大事だってことは、理解を通り越して身体に反射として叩きこまれているレベルになってはいますが、そういった医療など、特殊な条件以外において過剰に清潔を求めることには、むしろ神経症的なものを感じてしまいます。

不潔なものを避けようとするあまり、人体には害のないものまで汚いと感じてしまう。免疫力が低下している場合ならともかく、通常状態で他人が触ったボールペンすら不潔だと感じてしまうようなら、それは既に強迫神経症のレベルです。
抗菌グッズなんぞ買い込む前に心療内科を受診することをお勧めします。

とはいえ今は勤務先も子供の通学先も絶賛風邪祭り開催中。
過剰にならない程度に手洗い、うがいはしっかりよろしくです、皆様。

指のマタ(←特に第1〜2指間=親指と人差指の間は最も細菌数が多いそうですよ?)と手の甲もきちんと洗うこと。
十分な流水で手をすすぐこと。
タオルを回し使いしないこと。できればペーパータオルを使うか、その都度清潔なタオルを使うのがよい。
この3点をお忘れなく。


と、最後に一応看護師らしいことを言ってみる(笑)

もやしもん(1) もやしもん(2)
posted by 夕顔 at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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