2009年05月13日

転職しました。

元旦那(と書いて、はいきぶつと読む)から、「いつ掃除に来るんだ?」という脱力メールが来る今日この頃。
行きがけの駄賃とばかりに元自宅をそりゃあ凄い勢いで散らかして出てきたものだから、内部はまさに「汚部屋」状態で、確かに住むには多少不自由するかもしれないですけどね。

だからって、離婚したら私達、他 人 で す が 何 か ?
他人に掃除を命令するほどあんたは偉いんですか?
つーか。
一ヶ月以上そのまんまなんかい…それって人としてどうなんだ(汗)

ということで今後も掃除になんか行くつもりはありませんのでそこのところよろしく(でも奴はここ見てないけどなw)。


で。

転職ですよ。転職。
看護師の王道というか、病棟勤務に戻りました。
実に十数年ぶりの病棟復帰です。

看護計画が看護診断だったり、記録がすべて電子カルテだったり、いまや三方活栓など死語の世界だったり、とリアル浦島太郎状態なわけですが。

「あなたの今までの経験を活かして頑張って下さいね」って師長…そりゃ無理っす。私が今までいたのって、訪問入浴やら献血やら老健やらですよ?
内科急性期病棟に還元できるスキルなどございません。
ついでに汎用性のある頭脳の持ち合わせも、生憎とございません。

ひたすらスタッフの皆様の足を引っ張らぬよう、ついていこうとするのが精一杯です。

あ、一個あった。経験がものを言うスキル。

「わからない時にわからないと言える図々しさと、なんでも人に聞いてしまえる図々しさ」

…え?ただのおばちゃんだろそれ ですって?

そ の 通 り で す が な に か ?
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2006年12月15日

身体を置き去りにするな・2

体育という教科はいつからあると思いますか?

じつは、これ昭和22年のいわゆる6-3-3制導入の際に作られた教科なんですよ。

いや、戦前にも体育に相当する教科はあったと仰る方もいるかもしれません。
はい。確かに「相当する」教科はありました。
明治5年の学制発布とともに発足した教科名は「体術」。
翌年に「体操」と改められたその教科名は、以後実に68年の長きにわたって使われました。
その目的は「富国強兵の一環として」。

幕末の黒船来襲以降、急激に開国、そして明治維新への道を辿った日本。
黒船ショックとでも言いましょうか、明治になって作られた有名な建造物は東京駅然り、鹿鳴館然り、帝国ホテル然り、すべて西洋風です。
中村建治氏の力作「山手線誕生」(イカロス出版 注)にも詳しく述べられていますが、東京駅の設計は当初、純和風建築でなされていました。
しかし、「帝都の中央停車場としてはみすぼらしすぎる(引用前掲書)」という意見が当時の鉄道院総裁から出されたことから、今に残る西欧風の駅舎にデザインされたのです。
同書には和風建築のデザイン画も収められていますが、わたくしの感覚ではなかなか素敵な建物です。
しかし、当時の風潮は文明開化一色。
つまり、西欧化こそがすばらしいことであり、日本風のものなど「みすぼらしい」としか評価されなかったのです。
そして「脱亜入欧」ともいわれるその風潮は、人種的特徴にも及びました。

欧米人は体格がよく、だからこそ日本人は従来の文化を「捨てさせられたのだ」という考え方がやがて富国強兵という国策とリンクし、そして、日本人の体格と体力を向上させよう、そのためには運動をするのが良いということになったのです。
それこそが、体操(体術)導入の目的でした。

体操というのは、作られた運動です。

日本には系統立った運動(スポーツ)の歴史はありません。
忍術や修験道の流れを汲むような古武術や、宗教的行事の一環としての相撲(相撲はもともと神に奉納されたものです。土俵入りの際、横綱が注連縄のようなものを身につけているのは決して偶然ではありません)、武家の修練のための剣術(竹刀剣道ではなく、むしろ居合)などはありましたが、個人の精神性がかなり重視されるものばかりです。
これは世界的にみてもかなり異色な文化だと思うんですが、スポーツの歴史に詳しい方、ご意見お待ちしてます。
日本人は和を以って尊しとし、集団に拡大した自我を持つと言われますが、こと「スポーツ」においては個人主義だったんですね。意外。

閑話休題

さて、運動がいいということになって、シロートにもできるようにと開発されたのが「体操」という授業。
体操というのは、目的をもって作られた運動のことを指すそうですが、そーいやラジオ体操とか柔軟体操とかアルゴリズム体操(これ、知ってる人はNHK教育のマニアだと思う)とか、まあ確かにそんな感じですよね(笑)

今現在は記憶中枢を脳梗塞で破壊された関係でか、かなりお茶目なことを口走るじーさんと化しているわたくしの父は、昭和4年生まれ。
体操の授業を受けたほぼ最後の世代のはずです。
その昔は柔道で村代表になったとかいうスポーツ少年だったらしく、そりゃーもうわたくしの子供時代など耳にタコができるくらいの勢いで体操の授業の時の武勇伝やらお父ちゃんは柔道でこーーーーんなに強かったんだぞとゆーよーなことやらを聞かされまくりました。
そこらへんから推察するに、いっちにーいっちにーと「体操」ばかりをしていたわけでは決してないよーですが、身体を鍛えるという面が強調された授業内容という印象があります。

で、この「体操」。
日本を取り巻く国際情勢の変化から、昭和16年からは「体練科」という名称に変更、内容は体操と武道、さらに軍事教練というまさに富国強兵策を体現したようなものになりました。
そして戦後、昭和22年にアメリカ式の教育が取り入れられた際、従来の「体操」にスポーツを通した社会的、全人的な教育を目的とした「体育科」が発足したというわけで。

が、理念だけは良かったんですが、教える教師はといえば戦前戦中の教育を受けた人ばかり。
まったくもってスポーツを通じた全人的教育などできるわけもなく(笑)
結果、「6・3制 野球ばかりが強くなり」という当時の川柳を引くまでもなく、戦前からあった野球ばかりを教える風潮が目立ったということです。なんだかなぁ(笑)

スポ根マンガの草分けにして昭和の遺物「根性論」を今に伝える怪作「巨人の星」の原作者、梶原一騎氏は1936(昭和11年)生まれ。
彼が国民学校に入学したであろう昭和18年、教えられたのは体練科であったはずです。
あのとんでもないまでの根性論の展開は、梶原氏が体練科の教育を受けたことと決して無縁ではないとわたくしは思います。
余談ですが、あのトレーニング方法じゃ星飛雄馬は巨人の星どころか草野球ですら、星になる前に燃え尽きること請け合いです。
鉄ゲタうさぎ跳びだの、大リーグボール養成ギプスだの、余りのエビデンスのなさにリハビリスタッフと大爆笑させてもらってる昨今です。
良い子のみんな、くれぐれも鉄ゲタでうさぎ跳びはしないように。
道を破壊するだけでひとつもトレーニング効果などないことは言うまでもありませんので…

まあ、なにはともあれそうして運動の教育は行われてきたと。

そしてこれからもそれは続くのでしょうけれども、ここで前回のエントリの内容に戻ります。

「学力低下を嘆く声はあっても、体力低下に警鐘を鳴らす声はあまりにも小さい」というのがわたくしの主張です。

全国の高校で、世界史の授業を規定の単位数ぶん履修させていないという問題がありましたね。
受験に関係ないから、というのがその理由でしたが。
関係ないという理由で授業をしなくて良い、あるいはそんな授業は受けたくないというなら、体育や書道も危ういですね。

そんな世の中、いやだなぁ。

日本人は身体を軽視し過ぎる。
極端なダイエットに走ったり、根性論でトレーニングを語ろうとしたり。
脳梗塞で倒れたくせに、家に帰れば歩けるんだと言い張ってろくにリハビリもせずにいた結果、見事に廃用症候群で歩くことができなくなったり。(←おとーちゃん。あんたのことだよ!)

人間の身体は、使わなければその場所が廃用(筋肉や組織が衰える状態)を起こします。それはもう、恐ろしい早さで。
体力が低下しているということは、身体を支える筋力が低下しているということでもあり、そんな人間が廃用でも起こせばあっという間に寝たきりになる危険だってあります。

体力低下は危ないんですよ。

寝たきりになって、したいことも満足にできないような生活を自ら招きたくないならば。

身体を置き去りにせず、生きましょうよ。ね。



注:「山手線誕生」
山手線開業に至るいきさつ、歴史はこの一冊でまるわかりです。
全駅の駅名の由来と開業日などもわかる巻末のおまけつき。
もともとは、「東京人を買ってみた」というエントリにおいて、原武史氏の「山手線はつまらない」という記述への反証を試みた際の資料として購入したものですが、非常に興味深い内容です。一読の価値はありますよ。

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2006年12月05日

身体を置き去りにするな

一度は「およそ3」などという、どう考えても子供をバカにしているとしか思えない表記にされ世界中の失笑を買った(に違いない)円周率が、また3.14に戻されるようです。
当ったり前じゃねーか(笑)
3.14だっていい加減過ぎるんだぞ本来は。
子供達の混乱を避けるための配慮でした、って、要は子供のアタマの出来を見くびってたってだけの話でしょ?教えて文部科学省のエライ人。
円周率の「およそ3」問題はつい最近のことで、だから直接の関わりはないのかもしれないけれども、学生全般の「学力低下」が叫ばれて久しいですよね。
その一方で、「体力低下」について警鐘を鳴らす人があまりに少ないという事実に、どうしようもなく違和感と危機感を覚えてしまう夕顔でございます皆様こんにちは(←前振り長過ぎ)。

メタボリックシンドロームとやらのカタカナ語が、健康オタク御用達「日経health(←ちなみに愛読してます)」や「ゆほびか」などの雑誌のみならず、一般の雑誌にまでも踊る今日この頃なワケですが。

<以下チラシの裏>
めたぼりっくしんどろーむ、ねえ。
うちのIMEは、ユーザーの体型を考慮したのか「目た簿リック新度ローム」とか誤変換を起こしやがりました。変な配慮は無意味だぜベイベー。つーかどこの言葉だそれは(汗)
<以上チラシの裏>


「あるある」とかで散々ネタにされてる以上、内臓脂肪を溜めすぎるとどうやら身体に良くないらしい、つーことくらい判っている方は多いでしょう。
さらに「ミラクルシェイプ」などの実践的ダイエット番組もけっこうな視聴率を稼いでいるようですし…って別にわたくしが永井マサルのファンだから言うわけじゃありませんよ決して!(爆)

そんなこんなで世にはメタボリックシンドロームの怖さ&太っていることはオソロシイといったようなことを啓蒙するメディアが溢れているようなんでございますが。
内臓脂肪は怖いねとか、運動は大事なんだねとか、正しいダイエットは効果があるんだねとか。
そういう結論だけじゃいかんと申し上げたい。
それで終わってしまってはいかんのですよ。


そもそも日本人て、身体のことには余り頓着しないのが伝統というか。
昔、お貴族さま(公家)は、学問と芸能に秀でていることが良いとされていました。
芸能って、和歌を詠んだり楽器を演奏したりとかそういう方面ね。
唯一、蹴鞠が運動らしい運動じゃん!と思ったんですが、どうもあれは「和」とかそっち方面を重視する、一種のコミュニケーションツールであったらしく。蹴鞠からは決してロナウジーニョも田中マルクス闘莉王も生まれないってことですね(笑)
身体を動かして仕事をするのは、やんごとない方々ではないってことで。うーん、インドア派だったのね、貴族って。
しかも文献で見る限り、あの方達の移動手段てば…「牛車」。
貴族の皆さん!歩きましょうよ!!
この世をば我が世と思う望月の欠けたることのなしと思えば
などと、ホ○エモンでも詠まないようなトンデモオレサマ系な歌を詠んだことで知られる藤原道長は晩年糖尿病だったって説もありますし。
どう考えたって運動不足ですよ貴族の皆さん!
壮絶ながん闘病のすえに世を去った故・池田貴族氏に申し訳ないと思いませんか?
水戸のご老公だって助さん格さん八兵衛と歩いて諸国を漫遊されてますよっ!…ってあの人は貴族じゃない(お武家様です)うえにテレビドラマの話をしてもしょうがないわけですが。しかも時代違うし。じゃーなーくーてー。
そもそも貴族の身体能力(危機管理能力?)が余りにもお粗末だったからこそ生まれたのが、荘園等個人資産の守り手としての武装集団、武士だったわけで。
荘園に入り込むごろつきと戦い、守るということはすなわち人を殺めるという意味でもあり、自分の手を汚すなんて、死を穢れとして認識しているお公家様には逆立ちしたってできないことだったんですね。
自分は汚いことするのが嫌だからほかのやつらに任せちゃえ、って論法。卑怯ですね。
で、嫌なことを押し付けた挙句、その穢れの論理ゆえに貴族は武士を蔑むわけですよ奥さん。さらに卑怯なり貴族。
かわいそうすぎるぞ武士!
許せないぞ貴族!
自分は手を汚さずに、汚れ仕事を押し付けた相手を蔑むなんて、えーい、天にかわっておしおきだ!
と、相当感情移入してるのにはワケがありまして。
かつて我が家のトイレが詰まった時、何もできずうろうろするだけの産業廃棄物旦那に業を煮やしたわたくしは、ゴム手袋一枚で便器内容物(控えめな表現に留めてみました)を掻き出すという手段をもって事態の解決を図りました。
無事にトイレは開通したんですが、その際に産業廃棄物旦那は
「うわお前、きったねー」とのたまったんですね。
平安のお貴族さまかお前は!と大いにぶち切れたわたくしは、汚物まみれの手袋を投げつけたい衝動を我慢するのに非常な努力を要したんですよ奥さん!!
耐えたわたくしを誰か褒めてください(涙)

閑話休題。
そんなわけで。きっと武士も貴族に対して、斬った盗賊の血にまみれた刀や鎧を投げつけたくなるときがあったんじゃないか、いやあったに違いない、絶対にあった筈だと勝手に想像して勝手に同情しているのですが(笑)

ともあれ、不当な扱いを受け続けてそれに甘んじていられるほど武士は弱くなかった。
力あるものが上に立つのは必定。そうして、武家政治に日本史は突入するのだけれど。
まあ、戦国の動乱が過ぎてしまえば豪華絢爛な文化が隆盛し、貴族のような生活を始める武士も多いワケで。平清盛然り、足利将軍家然り、江戸幕府の末期然り。ってこれは余談ですけど。

えーと。

つまり何が言いたいかというと。
日本人の身体(身体能力)に対する意識ってのは、平安のお貴族さまとそうたいして変わってないじゃないかってことなんすけどね。
日本人の体格が小柄(欧米に比べて)なのは、アジア系人種の特徴もあるだろうけど、伝統的に身体に無頓着だったことと無関係ではないだろうと思うんですがどうでしょう。

島国でほぼ単一民族であるということは、他民族との争いや侵略、略奪に怯える必要がないということでもある。
大陸系の民族は、常に侵略と略奪の不安と戦わざるを得なかったわけで、そのことが皮肉にも身体能力を高める結果につながったのではないでしょうか?
大量破壊兵器など存在もしない時代において、戦いは常に「兵力」に頼らざるを得ず、つまり有事に備えるということはすなわち兵士の能力を高めることに他ならないわけで。
優雅に歌だなんだと詠んでる場合じゃないんですよ奥さん。
久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ とか言ってる場合じゃない。
久方にのどかな日差しの日になろうが土砂降りの雨だろうが、目の前の敵は消えてなくならないんですよ。
どっちが勝つか負けるかよりも。
サバイバルゲームじゃない以上、己に突きつけられるのは模擬刀ではなく、ほんものの槍や刀。
斬られれば死ぬ。
誰だって生き残りたい。
だから、生きるために戦う。
それがいいことか悪いことかはともかくとして、戦わざるを得ない状況が大陸系の民族の皆さん(主に兵士)の前にあったと。

で、視点をちょっと変えてみましょう。

危険とは無縁であったにもかかわらず、そんな日本の学校教育に体育という教科があるという事実。
これは不思議じゃないですか?

えーと、長いんで分けます。以下次回。
posted by 夕顔 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(1) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

介護ロボットは離床センサーの夢を見るか?

昨夜は夜勤だった夕顔でございます。

実は一ヶ月ぶりの夜勤だったわけなんですが、今日はその感想など。


たのむ。
たのむから…っ!

転倒ハイリスクなじーさまばーさま方におかれましては
ご自分の能力の限界を超えて立ち歩こうとしないで頂きたい…(汗)
離床センサーの同時鳴動は心臓に悪いです。

それから。
慣れない環境でテンパってるのは理解いたします。理解しますから。
お願いです。
真夜中の4床室で、お隣のベッドに放尿しようとしないで頂きたい。
「いや、私は怪しいもんじゃないんですよ」って仰った貴方。十分怪しいです。

あとね。
夜勤帯は各フロアに職員が一人しかいないんです。
お願いです。
トイレコールは順番に鳴らしてください。
5人から一気にコールが来ましても、わたくし達は分身の術を体得しておりません。
しかもなんで揃いも揃ってみんなお尻が重…ゲフンゲフン(汗)


うちの施設の夜勤はね。
各フロア介護士1名(4フロアなので計4名)と、1夜勤あたり看護師1名の計5名しかいないのよ。

この人数で100名のじーさまばーさまのお世話をするわけ。
なおかつ離床センサーの同時鳴動やら放尿未遂やら、同時多発テロ…じゃなくて同時多発トイレコールに対応しないとならないわけで。

ただでさえ夜勤のあとは、ナースコールとセンサーのアラームの音が幻聴のように頭から離れないのよ。
だからお願い。

用がないなら3分おきにコール押さないで。


<おまけ>
帰ってきたら、うちの隣の家の娘さんがピアノを弾いてたのですが。
曲が「エリーゼのために」でした。
うちの施設のコールは「エリーゼ」のメロディです。
彼女に罪はないけれど、わたくしがどっと疲れたことは言うまでもありません。
posted by 夕顔 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月06日

理論と現実

看護独自の機能って言ったらなんでしょーか。

日本看護協会によると「看護とは,健康のあらゆるレベルにおいて個人が健康的に正常な日常生活ができるように援助すること(林滋子編:看護の定義と概念第2版 日本看護協会出版会 1989)」だっつーことですが、これってつまり、看護の対象となるのは、すべての人間的存在であるって理解でOKですよね?

当たり前ではありますが、看護の対象は病院の中にいる「患者」だけではないってことで。

看護師の仕事はどうしても医療中心に考えられがちではあるけれど、そればっかりが看護じゃないってことは、かのフローレンス・ナイチンゲール女史も明言されておられます。

曰く「看護は医学と異なる専門職である」。

また、看護理論家ヴァージニア・ヘンダーソン女史は、その理論において、看護とは「健康であるか否かに関係なく、個人を補助してその人の健康や安らかな死を迎えさせるために必要なことができるようにする」ことだと定義しています。

…だからといって別に理論に後押しされたわけでもなく、理論を実践するとかいう高邁な信念のもとに今があるわけでもなく、ただ施設に勤めてみたかったからというどーしよーもない理由で施設看護師をしているわたくしがいるわけですが(笑)

この仕事をする前は在宅介護方面の仕事をしておりました。
正確を期すならば、訪問入浴介護という在宅介護サービスの一分野です。
浴槽持ってってじーさまばーさまを風呂に入れる、ぶっちゃけ言えばそんな仕事なんですが。
入浴というのは思いのほか体力を消耗しますので、その方が本当に入浴できる体調かどうかを判断するために看護師が同行することになっているんです。

体力は使うし、雨でも雪でも休みにはならないし(そりゃ当然か)、定時が17時30分のはずなのに、その時間にはまだ最後のお宅でじーさまを風呂に入れてる最中だったりすることが日常茶飯事、という状況ではありましたが、それでも結構楽しい仕事でした。
とはいえ、個人のお宅にお邪魔することは、生活の場に立ち入るということでもあり、病院や施設ではありえない事態にもよく遭遇しました。

ライトなところでは、エロジジイに身体触られたりとか。
じじい曰く「金払ってるんだからいいじゃないか」。
じーちゃん、それは違う種類の風呂だろうと言いたかったです(笑)
また、事故で首から下が動かなくなり寝たきりのとあるお方は、浴槽への移動の為に抱き上げようとしたら…なぜか指先に「ぬぷ」って感触が(汗)
不審に思いよく見ると、仙骨部に深い床ずれ(褥瘡)ができていました。
麻痺で痛覚がないため、床ずれができているのに気がつかなかったのでしょう。当然、「ぬぷ」はそこに指先がめり込んだ感触だったわけで。
家族がしばらく旅行で不在だったことから、体位変換が十分に行えなかったためのようです。
足先にはよく傷を作っている方でしたので、そちらは注意して見ていたんですが。
さすがに背中は想定外だったというか。まあ一般的にリスクとしては仙骨のほうが高いワケで、想定してなかったわたくしが甘いって話ではあるんですが。

それにしても、あの感触はありえなかった…(汗)


しかし。

一番ありえなかったのは、お邪魔するそれぞれの家だったかもしれません。
もちろん普通に普通の家屋がほとんどだったのですが。

根太が腐って床がぶわぶわにたわんでいた家もありました。
移動式浴槽は、お湯を張るとその総重量が200sを軽く超えます。
床、抜けますがどうしましょう?って感じでした。
結局そのお宅ではほかのお部屋を借りて対処したのですが、伝え聞いた話によると、後に導入された介護用ベッドの重みでそのぶわぶわ床が抜けたそうです。そりゃそーだよなー…

別のお宅では、入浴で使えるスペースは6畳一間だけ。ほかの部屋には足を踏み入れるなとのご家族の意向。
なのに壁面いっぱいに古新聞が積み上げられ(しかも絶対濡らすなという指示つき)、おばーちゃんの寝ている布団とご家族の机(木製の学習机くらいのサイズ)が置かれ、実質浴槽設置に使える広さは1畳以下でした。
そもそも浴槽自体の大きさだけで1畳近くになります。
入浴介助するスタッフはどこにいればいいんですか?と聞きたかったです。
そのお宅を特定されてしまう恐れもあるのであまり詳しくは書けませんが、無理やり入浴はして頂いていました。
人間、やってできないことはないんだなと思いました(違)

びっくりしました?
まだとっておきのお家情報があるんですけど。

その家は、住宅街のはずれにありました。
平屋の、一見普通のお家です。間取りは和室(確か8畳くらい)ふた間に台所、風呂、トイレだったと記憶しています。
おばーちゃんが一人でその家に住んでいましたが、具合が悪くなり寝たきりになってしまったので、ご近所に住む娘さんが毎日通って介護をしていました。

これだけ見ると、非常に美談なんですが。

和室ふた間の壁紙はすべて床にずり落ちています。
おばーちゃんは、可能な限り控えめな表現を採用してもふくよかと表現せざるを得ない方で、ベッドがクイーンサイズだったのですが、そのベッドの周囲は、ドライキャットフードと毛玉化した猫の毛が散乱。
猫アレルギーのスタッフは数分で症状が出ていました。
さらに。
使ったお湯を排水する場所として、通常はお風呂場の排水口を借りるのですが、そのお宅に限ってはその手が使えませんでした。

なぜなら、風呂場がカマドウマ、ゴキブリ、ゲジゲジその他の巣窟(時々ネズミも出た)と化していたからです…

さらに、半野生化したその家の猫は、いまどきの猫らしくなく狩が上手く、よくネズミを捕まえていたのですが。
…なぜ猫って、捕らえた獲物を得意気に見せに来るんだろう?
おかげさまで訪問すると玄関で、猫が得意気に置いたであろうネズミのご遺体にお出迎えされることもありました…。
まさに極限状態(笑)でおばーちゃんを入浴させていたわたくし達だったのでありました。

近代看護の母たる先人、ナイチンゲールはこう述べています。
「看護とは、自然が最も働きやすい状態に患者をおくことである」と。
そのために、新鮮な空気・水・光・暖かさ・清潔さ・静けさなどを適切に保ち、食物の管理と選択もきちんとできることを意味すべきだとしています。

…ひとつも守れていませんナイチンゲール先輩(汗)

「看護とは、患者の生命力の消耗を最小にするように生活過程を整えることである」というのが、ナイチンゲール看護理論(別名「環境論」)における看護の概念です。
…きっとナイチンゲールが生きていたら、わたくしをはじめ、当時あのおばーちゃんの入浴に関わった看護職全員が、ものすごく怒られたであろうことは想像に難くありません。

言い訳にもなりませんが、在宅での環境調整は、以前のエントリでも触れたようにケアの統一性・連続性という問題もあり、入浴というカテゴリでしか関わっていない一企業が方向性を決めることはできませんし、また、してはいけないと夕顔は考えます。

それでは、どう関わるべきだったか。
何ができたか、何ができるか。
それを考え続けることが、おばーちゃんに対するひとつの贖罪かな、なんて思う今日この頃です。

うーん、なんだかまとまらない(笑)
posted by 夕顔 at 01:42| Comment(0) | TrackBack(0) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月01日

帰りたいけど帰れない

またえらくほったらかしてました…
別に放置プレイ推奨なわけじゃないんですけどね?


で、またお仕事の話なんかをしてみようかな、と。


今日は認知症階の担当でした。
Tさんというおばーちゃんがいます。御年96歳、1年前から急激に認知症が進行し、自分の名前以外の認識が非常に危うい方です。(ややこしいですが以前のエントリで書いた救急搬送したTさんとは別人です)
そのTさんが、急に困った顔で相談に来ました。

「おねーさん、私ね、明治なんですよ」
確かに明治生まれだよな、と思い「そうですね」と返事するとTさんは
「なのに気がついたら大正なんですよ。いる部屋がなくなっちゃって…明治に還してくれませんかねぇ、私の居場所がありますんで」

…大正どころか昭和も終わっちゃってるんですけど(汗)
も、笑いを我慢するのがえらく大変でした。


認知症という「状態」があります。
以前のエントリにも書いたことですが、以前は痴呆症とかボケとか表現されていたこの状態は、「単に物忘れが酷い状態」を指すものではなく、「日常生活のお約束が徐々に通用しなくなってゆく状態」を指すものです。
それは記憶野が緩慢に、しかし確実にその用をなさなくなってゆくさまと言い換えてもよく、ご本人にとっては常に何かが判らない、しかもすっきり解決しない状態が延々続くわけです。
現場にいるものの実感として、プライドが高ければ高いほど、そして何事もきっちりしていなければすまない性格であった方ほど、自身の状態への不安と現状への否認は強く起こるようです。
そして人は(控えめに言っても、多くの人は)、常に不安に囲まれた状態で安穏と暮らせるほどには強くもなく、さらにその不安の原因が自分自身にあると自覚できるほどには悟りを開けないものです。
しかも大体において、老いて衰える己を受容できる人など、いるはずもなく。
結果どういうことが起こるかというと。
安心を得ようとして行動を起こすか、安心できる物語に縋ろうとするわけです。

認知症の周辺症状のひとつに「物取られ妄想」というのがあります。
人生相談などで目にしたことがある方もいるのではないかと思いますが、単純に図式化すると、お年寄りが「物を取られた」と言い張り周囲を泥棒扱いするというものです。
この事象における客観的な事実は、お年寄り当人が「物(その多くは財布)を置いた場所が判らなくなった」ということのみです。
しかし当人はそうは認めない。「どこにあるか判らない」ということが自分の記憶力の低下に起因することだと認められず、その結果認識にズレが生じます。

つまり、「物がない」=誰かが取った(あるいは隠した)という決め付けがおこるのです。

大体において、疑われるのは近くにいる誰かです。
疑われたほうにとっては迷惑この上ない話ですが、疑っているほうとしてはその解釈が一番「安心できる」(安心という表現に語弊があるなら、「納得できる」と言い換えてもいいですが)「物語」なのです。
妄想というのは、事実でないことをそうと思い込み修正できない状態を指すものですが、修正できようはずもないのでしょう。
なにしろことは己のアイデンティティに関わるのですから。

そして物取られ妄想と同じくらいに厄介なのが「帰宅願望」です。
施設に勤務していて、特に認知症のお年寄りから「帰りたいので迎えを寄越してください」とか「今から帰ります、家の者も心配していると思うので」といった訴えを耳にしない日はありません。
その家の者がここのサービスを利用させているんですけどというツッコミは無粋すぎる上、当人を混乱させるだけの効果しかないので言いませんけど。つか、それを言えるとしたら、その神経は人としてどうなんだ(汗)
で、入所期間が終了したらお年寄りは家に帰るんですが、家族が迎えに来た時にそれとなく聞いた限りでは、大抵の人が家でも「帰りたい」と言っているらしいんですね。

きっと、彼女達にとって帰りたい家というのはなつかしい子供の頃の家、もっと言うならふるさとなんだろうなと思うのです。

おそらくは記憶にしかないふるさと。
同じ地名の同じ場所に立っても、おそらくはもう見られない景色。
そんなことを考えると切なくなります。

今いるここはどこなのか、今はいつなのか、何をしているのか。
そういったことをまとめて「見当識」といいます。記憶野の働きがなくなっていくのが認知症ですから、当然見当識はボロボロに障害されます。
それゆえ安心できる「場」を求めるということでは、帰宅願望も物取られ妄想も、根底にあるものは同じと言えるでしょう。


認知症を持つ当人の不安と、介護する周囲の困惑と。
どちらも深刻で、どちらも辛いものです。

嫁が財布を盗むと言い張るばーさまと。
盗人扱いされたと悩む介護者と。

そのどちらにとっても、わたくし達の存在が助けになればと願わずにはいられません。
posted by 夕顔 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(1) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月07日

赤色灯に取り憑かれた女

時期が時期だから仕方がないことなのかもしれません。
まして体力のないお年寄りをお預かりする施設としては尚更に。


えーと、何の話かと申しますと。

体調不良者が多発しているって話なんですが。ええ、勤務先の入所者のじーさまばーさまに。

以前にもそんなことを書きましたが、今回は37.6℃どころか下手をすると39℃ぶっちぎり(それもいきなり)ってパターンが非常に多く見られます。


施設に勤務していると言うと、かつての同僚や看護学校時代の同級生などは「じゃあ楽でいいよね〜」などとのたまいますが。



おまいら。楽だと思うなら替わってくれ。特に夜勤。



なにしろこんな状態でも当施設の夜勤看護師は1名です。相当に恐ろしいものがありますが仕方ありません。

つーわけで、施設なら楽でいいよねとわたくしに暴言を吐いたあなたとあなたとあなた。
連絡お待ちしてますのでぜひ夜勤専従として入ってください。


で。

今回の勤務も日勤終了直前に39℃ぶっちぎったじーさまやら、なんかゼロゼロと喘鳴が聞かれるばーさまなど、スリルとサスペンス満載で申し送られたわけです。

しかし発熱したじーさまも、解熱剤の効果かアイスノンの効果か19時過ぎには37度台まで解熱。
喘鳴著明だったばーさまも、臥床している限りは穏やかな呼吸をしています。SpO2(経皮的動脈血酸素飽和度;よーするに、血液中にどれだけ酸素が含まれているかを数値化して呼吸状態の指標とするもの。測定にはパルスオキシメーターという器具を使用。非観血的に検査できるが、四肢末端のチアノーゼ等の末梢循環不良があると測定不能となる場合もある)も94%前後で安定、ほっと安心していました。

いったい誰が、この安心が束の間のものだなんて予想できた…?

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posted by 夕顔 at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月21日

どんまい!って、何がどんまいなんだか

「ナースのお仕事」なんていうタイトルの、実際に看護職についているもの的にはテレビを叩き壊したくなる衝動と戦うのに必死になるドラマがありました。
あれを見て、実際の看護師の仕事があんなにユルいもんだと思われたらどうしてくれるんだフ○テレビ!!
あんなに仕事に対する意識がいい加減で、なおかつあんなにプライベート垂れ流しな看護師はいません。
そもそも仕事とプライベートの区別があそこまで出来ない人間は、看護師のみならず社会人として失格です。

似たようなことを今NHKで放送されている夜のドラマ「どんまい!」についても思うんですけどね。
介護ヘルパー(訪問介護員)を題材にしているドラマなんですが、をいをいサービス担当者会議はどうした、おい、フェイスシートはどこにやった!とツッコミどころ満載です。サービス提供確認の印鑑貰ってるところなんかも見たことないしなぁ。
原作のコミックスは勉強不足で読んでいませんが、ドラマだけ見ると非常に腹立たしい内容です。
なにしろ主人公が次から次にトラブルを起こします。
結果オーライになっていますが、結果オーライならそれで良いかと言ったらそうじゃないでしょ!
介護保険、在宅介護を扱うのならケアマネージャーの存在抜きには語れないはずなのに、なんかこのドラマを見てると、介護の方向性をヘルパーが勝手に決めちゃってるんですよね。
(介護の事業所の所長がケアマネって設定らしいけど、ケアマネとしては影薄すぎて全然役だってない)
介護の方向性以前にその方の人生まで、主人公が良かれと思う方向に誘導しようとしてるように見えるのはなんともいただけないですね。
何が最良かは人によって違うこと。己の信ずる「最良」を人に押し付けることの愚かさも、この主人公には知ってほしい。

現役ケアマネとして言わせて頂くなら、あんなヘルパー、わたくしが担当する利用者様の介護には入って頂きたくありません。
わたくしは施設ケアマネですので、在宅の事業所にいたと仮定しての話ですけどね。
事業所に担当者交代を申し入れて、聞いて頂けないようなら事業者を変更します。

利用者に提供される介護は、(訪問介護だけが介護サービスとして導入されているのだとしても)その方のニーズをアセスメントし、それをもとにケアマネが作成し、本人、家族の承認を得た居宅サービス計画書に基づいて行われるものでなくてはなりません。
実際に訪問介護に入る事業所側では、訪問介護計画書を作成し、それに基づいて介護を行い、目標達成度や利用者、家族の満足度について常にモニタリングして計画を修正して行く作業が必要になってくるわけです。
ヘルパーが単独で、その場で方向性を変えていいわけじゃないんです。
それに複数のサービスを利用している方がいたとして、入っている業者が全部自分達で勝手に方向性決めちゃって、それが各社バラバラだったらどうなります?
混乱するのは利用者様とご家族ですよ?
もちろん臨機応変な対応が必要なのはいうまでもありませんが、訪問介護員に求められるのはあくまでも介護であって、(ドラマで描かれているような)必要以上の干渉ではありません。
劇中の登場人物の台詞に「あんた何様のつもり?あんたヘルパーでしょう?!」というのがありましたが、思いきり頷いていたわたくしでした。
「統制された情緒的関与」という言葉をしっかり学んでから現場に入れと小一時間(ry



まったくNHKも何を考えているんだろう。
介護福祉士の社会的地位をもっと上げてほしい、業務内容に見合った評価と賃金体系の導入をしてほしいと思っているわたくしとしては、これほど不快な話もありません。
元気と勢いと信じるものさえあればこの仕事はできるとか思って貰っちゃ困ります。

「どんまい!」って言葉は、わたくしの尊敬してやまない、実在する素敵な介護職たちにこそかけてあげたい言葉なんです。
思い込みで突っ走るシロートヘルパーには「思い上がるな!」で十分です。

とりあえず、シロート以下の主人公は介護の基本から学び直して来い。話はそれからだ。
posted by 夕顔 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

37度6分のデジャビュ

ものすごぉく、久しぶりに二つ目の記事でございますorz


本業が多忙を極めてしまいまして。ネットに繋いでも、ものを書く作業なんぞ仕事以外ではしたくもないといった状態になっておりました。

わたくしの本業は、プロフにも書いておりますとおり看護師です。
といっても病院勤務が性に合わないもので、老人保健施設(老健)に勤務しているんですが。
で、兼業でケアマネージャー(通称・なんちゃって施設ケアマネ)なんかもしてるものですから
ちょっと事務作業量が半端じゃなかったというか…
そこら辺の事情なんかもそのうちに書けたらいいな、とは思っています。


で。


昨夜は夜勤でした(老健は看護師にも夜勤があります)。
現在ただいまわたくしの勤務先では、風邪が絶賛大流行中です。
ここ半月くらいで急激に気温が下がったことも影響しているのでしょうが、後から後から風邪をひくじーさまばーさまが発生するという、恐怖の感冒スパイラルの渦中にありまして。

医師・看護師が常勤で配置されているとはいえ、あくまでも老健は老健です。
継続した医療が必要な状態になったら手に負えません(つか、手に負っちゃいけないんです。施設の性格上も、法律上も)。
そのような事態になったら即・病院紹介です。
今月だけでいったい何人、病院に送ったかなぁ…(汗)
あ、これオフレコで願いますね?ってワールドワイドに言ってどうする、自分。

えーと。

昨夜の夜勤も、微妙に発熱してるばーさまが複数いるという状態でスタートしました。
申し送りを受けた時点で、ひとりのばーさまが37度6分。

なんかこの間の夜勤も37度6分で申し送られたばーさまがいなかったっけか?

そんなイヤ〜〜なデジャビュから入る夜勤てのも相当に気分悪いですけど、仕事ですから仕方ありません。

夜勤業務は夕食から始まります。
個人的にはこれが一番の原因なんじゃないかとか思ってるんですが、うちの施設では食事を食堂でとります。
入所者100名が一堂に会するという結構壮大な風景ではあるのですが、問題は、風邪をひいてる人も、よほどの体調不良がない限り食堂に来るという点で。

多少なりともご自分の体調を自覚することができ、かつ、他人に感染させないような配慮ができる方ばかりなら問題はないんですけども。
意地悪だとか自己中だとか、そういうレベルの問題ではありません。
むしろ意地悪でしてることなら対処の方法もあるんです。

高齢の方の中には、さまざまな事柄に対する認識が危うくなっていらっしゃる方がいます。
少し前までは痴呆というちょっと嫌な響きの単語で表現されていた「状態」ですが(現在は認知症という言い方をします)、この状態は単に物忘れが酷いと云う事を指すものではありません。
日常を円滑に過ごすためのいわば「お約束」が判らなくなってしまう状態、とでも言いましょうか。
たとえば目の前、足元に障害物があるとして。
普通の状態であれば、障害物を避ける方が殆どでしょう。それは、障害物を認識した段階で「このまま突っ込んだら危ない」と「予測」するからです。
しかし、認識が危うくなっている方は、下手するとそのまま突っ込みます。
理由は、危険だという予測ができなくなっている場合と、そもそも目の前のあるものが「障害物」であるという認識ができなくなっている場合とが考えられます。

そういう方が風邪をひいたらどうなるか。

体調が悪いことの自覚はあっても、だからマスクをしようとか、食堂で大笑いしたりしないようにしようとか、そんな対処を自発的にすることはまずありえません。つか、そんなの期待する時点で間違っています。
マスクをしてもらおうにも、自らの意思に反する行動、望んでいない行動を無理にとらせようものなら、その時点で不穏状態になって大騒ぎに。

かくて風邪ウイルスは蔓延の一途を辿ると(汗)


前置きはさておき(前置きかよ!!)なかなかスリリングな夜勤でしたよ。

発熱者数もさることながら、咳しすぎて喘鳴(ぜいめい)が居室入口まで聞こえる方、2名。
このふたり、寝る前は問題なかったんですが、朝になって血中酸素飽和度を測定したところ85%まで低下していました。
富士山頂での標準的な血中酸素飽和度とほぼ同じ数字です。
臨床的にはかなりよろしくない状態であることは言うまでもなく(通常は90%以上です)、食堂に歩いて行かせるわけにいかず、車椅子を使用しました。
その割には本人の顔色は良かったんですけど
「お願いだから日勤帯で病院に行ってもらって」と、日勤看護師とソーシャルワーカーに懇願してきました。


さらに、昨日昼間に飲んだ下剤が効きすぎて、土石流状態の失禁をしてくださったばーさまや、夜間10分ごとに手を叩き続け、同室者を不眠のどん底に叩きこんでくださったばーさまがいたり。

いろいろありますが、それでもこの仕事、好きなんです。
このカテゴリ(お仕事)では老人介護の分野での看護業務(と、仕事上の笑える話とか)について、その魅力をちょこっとでも伝えて行きたいと思ってます。
posted by 夕顔 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(1) | お仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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