2011年09月05日

思いと言葉はどちらが先にあるか

思うことがあってそれを言葉にしようと人はもがくのか

口から出た言葉に思いがかたちづくられるのか


どっちでしょーね。



写真を撮ってると、どうも後者だと思うことが多いんですが…
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2011年02月15日

届くはずのない質問状を書いてみた

撮りたいものがあるからカメラを買った。
撮りたいものがあるから移動手段として車を買った。
撮りたいものがあるからそこに行く。

少なくとも私はそうでした。
そして私は写真で表現をしたいと考えています。まだそんな腕はありませんが。

撮りたいものがあるから撮りに行くのではないでしょうか?撮るのではないでしょうか?
そこに自分の意志や嗜好は存在しないのですか?
ならば写真を撮る主体はどこにあるのですか。
自分が撮りたいと思うことも表現の発露ではないのですか?

意志と表現とは別だと仰せですか?
自分らしさってキーワードが写真に不要なら、何も表現しないことが写真の本質なら
なぜあなたはフォトグラファーを名乗るのですか?
写真集を出すのですか?
なぜ「写真を撮ろう」っていうイベントで人を集めるのですか?


写真はカメラがあればだれでも撮れます。それは事実です。

では、このできあがった写真の差はなんなのでしょうか。
それこそが個性なんじゃないのですか?


あなたはだれかを、自分の発案で動かすことそれ自体が目的なのですか?
「写真を撮ること」は行動の一部で、できあがった写真には記録以上の意味はないということですか?



とある方に、↑という質問メールを書いた。
書いてみて、消した。

確実に私の言葉は届かない。
言葉が絶望的に足りていないからだ。
絶望的に足りない言葉は、認識の違いという深い河の底にある。
違う認識の人間に私の認識を文章で理解してもらおうとするのは、私が最も苦手とする分野だ。
というか、深い河の底から言葉を拾い出す手間をかける価値が、この質問にあるとは思えなかった。
たぶん私の質問は曲解されて、せいぜい「そんなことは言ってない」「あなたも一緒に」とかいう返事が来るのがオチだと思う。

だから
おそらく私はこの先も問うことはない。

決定的に違う。そう理解できたことをよしとするべきだ。



でも本音は言いたい。
この気分の悪さをどうにかしたい。

伝えたい。伝わらないことは自明だが。
自分の表現として写真を選ぶやつもおるんだよと。
私はすごい写真なんか撮れなくてもいいから、自分の意志で写真を撮り続けたいんだよと。

そして
私はあなたの意見は支持できないと。
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2011年02月04日

君よ知るや麗しの橋

鋼橋が好きで、どうしようもなく惹かれてしまう。

とはいえ、例によって勢いだけで突っ走る私のこと。
被写体との距離がとれず、結果、とんでもない写真の嵐になるわけで。
着眼点が違うということではなく、完全にそれ以前のレベルの問題なのは火を見るよりも明らかというか。

そもそも鋼橋に惹かれる原因になった橋というのはたぶんこれ。
IMG_1141-1.jpg
昭和初期に架橋された中路式カンチレバーワーレントラス、東武鉄道隅田川橋梁。

越谷在住、浅草勤務だった私は、6年にわたり東武のこの橋を渡り通勤していました。
隅田川の両岸は、「花」に歌われる通り桜の名所です。
その春の麗の景観を列車に乗った人も愉しめるように、列車に乗った人の視界を塞がないようにという点を理由の一つとして中路式が選択されたと聞いたとき、私はこの橋に、この橋の設計者に惚れました。
今に至るトラス贔屓は、おそらくこの時点で決定されたのでしょう。

写真がしょぼくて済みません。
カンチレバーであることが、ある程度はっきり分かる写真の手持ちがこれしかなかったもので…

ということで、橋への愛に対して腕が明らかについていけてない写真ばかりがこの先も続きます。
それでもいいという奇特な方は、どうぞ続きをご覧ください。
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2011年02月03日

アンストッパブルを見てきた。

私は陳旧性鉄子であり、さらに慢性鋼橋萌え症候群という病も抱えている身です(最近じゃそれにダム好きという病も加わっていますが、今回はダム関係ないのでスルー)。

そんな私に実に似合いの映画が絶賛公開中だというので、いそいそと見に行ってきました。
タイトルは「アンストッパブル」。
2001年にアメリカで起こった鉄道貨物輸送における重大インシデントをヒントに制作された映画です。

ストーリーは実にシンプルで、暴走機関車を止めようとする物語です(としか説明できません)。

で、アメリカって国はやたらと長大なトラス橋が多くて、この作品にもそれはそれは素敵なトラス橋がガンガン登場するのです。
もうもう、ストーリーは脇に置いて、トラスを見るためだけにまた見に行かねばと真剣に考えてる辺り、実に救いようがないんですが…


ということで、映画「アンストッパブル」のまとめ。
(以下、若干のネタバレがあります)

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2010年01月13日

あけました。おめでとうございました。

…新年明けちゃった。


いろいろあった2009年は過ぎ去り、2010年初エントリなわけですが。
実は、ネタはまだ2009年を引きずっていたりします。

昨年、自民党政権が潰え、あらたなる連立政権が発足したのは記憶に新しいところ。
その連立政権の中心たる、小沢閣下とゆかいな仲間たちが率いる民主党の「魔にふぇす徒」とやらでダムは無駄の象徴として槍玉に挙げられ、政権交代により群馬の八ツ場ダムが堤体着工を目前にして事業中止に追い込まれました。
その後の悲喜交々に関しては報道を振り返っていただきたいが、「憤懣遣る方なし」「暖簾に腕押し」「馬の耳に念仏」「怒髪天を突く」といった、いままで辞書で字面でしか見ていなかった慣用句を実感を持って理解させて戴いたことについてのみ、連立政府には感謝しておこうと思います。
あ、連立政権つーより御用マスコミにか。

愚痴はいろいろある。
あるが語っても詮無いこと。
一言だけ吐いて、それ以上は語るまい。オトナだもん。

一言。「けったくそ悪い」。
以上。
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2009年11月05日

鶴舞う形の群馬県

群馬県には、上毛カルタという郷土玩具が存在します。

長野出身のかたに、県歌「信濃の国」を歌えない方がほとんどいないとよく耳にしますが、
戦後生まれに限定させていただく限り、群馬出身者で上毛カルタを知らない方もまたほとんどいないと思われます。


もちろん、埼玉生まれの埼玉育ちの私は知りませんでしたがw


息子2号は小学5年にして上毛カルタデビューになるわけで。
転校してきた当初から、地域の育成会のおかあさま方に
「カルタのルールとか覚えないと家で練習できないからね」と言われたりしてたんですが、
正直、「へーずいぶん力入れてるんだなー」くらいにしか思っておりませんでした。

が。

私の認識は、残念ながら羊羹なみに甘かった…


先日、ルールを覚えるためにと地域の方に勧められ、上毛カルタ審判講習会なるものにもぐりこませていただきました。
いやもう、すでにこの時点で「力」は入りまくりなわけで。

だって審判講習会ですよ?
郷土玩具に競技会があるうえ、さらに審判するために講習があるってこと自体がすでにありえないと思いませんか?

1 札の並べ方にはセンチメ−トル単位での決まりがあり
2 花札ばりの役札が存在し
3 競技参加にあたっては姿勢にも決まりがある


まだまだルールは微に入り細に入り決まってるんですが、この時点で私の脳みそが許容限界を迎えてしまいました。
審判講習の講師は、松岡○造くらいの迫力でアツく・クドく語っていましたが、ほとんど覚えてません。
この状態でどーやって子供に伝えりゃいいのかと途方に暮れております←今、まだココ


とりあえず群馬の本気はやたらと感じたので、前橋の大きな本屋さんに行って「上毛カルタ」をひと組買ってきました。


「鶴舞う形の群馬県」

これは万難を排してでも取得せねばならない一枚らしいです。
個人戦でも団体戦でも、取得枚数が同数であった場合は
この「つ」を持っている方に軍配が上がるシステムなのだそうで。


どうしても私には群馬の形が鶴には見えないんですが
群馬県の地図を壁に貼って、鶴に見る努力をしてみようと思います。


群馬が鶴に見えたなら。

私も上毛カルタについてシューゾーなみにアツく語れるようになるのでしょうか…?
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2009年05月31日

Fullmetal Rose2

ばら園の話の続きです。

こんな品種もありました。

P1010121.JPG


この薔薇は、「シャーロット・アームストロング」というそうです。

…なんか。
某マンガに出てきそうな名前だ…
と思うのは、私だけでしょうか?
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2009年04月29日

挨拶状

このたび、離婚しました。

それに伴い、住まいも群馬に移り
新たなる気持ちで親子3人過ごしていこうと思っています。

群馬は自然も多く、またダムへのアクセスもよく
親子共々マイナスイオンに浸れるすばらしいところです。
奈良俣ダム放流中

お近くにお越しの節は、ぜひお立ち寄りください。


ただし、酒持参で。


平成21年4月吉日  夕顔 拝


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2008年12月22日

「自死という生き方」に憤る

哲学は完全に門外で、エトムント・フッサールの現象学くらいしか感覚的にですら理解できる理論はない。
ハイデガーとレヴィナスは笠井潔の「哲学者の密室」の登場人物、ハルバッハとガドナスを通してしかエッセンスに触れたことはないし、ジャック・デリダに至っては、生理的に文章を受け付けられない人がデリダ論を書いているので、そもそも読む気にすらなれないのが現状。脱構築?なにそれ、食べられるもの?って状態だ。
フッサール現象学にしたところで、パトリシア・べナーの看護理論その他の記述を通して二次的に理解しているような状態だから、専門に研究している人から見れば、鼻で笑いたくなるレベルであろう。

うだうだと前置きをしたのには一応理由がある。

須原一秀という人をご存じか。

武士道の実践という幻想に取りつかれ、自然死は悲惨だという思い込みから、自らの命を絶った「哲学者」だ。
遺作「自死という生き方」は、その自死に至る思索の経緯が綴られている。
本の帯にはこうある。
「65歳の春。晴朗で健全で、そして平常心で決行されたひとつの自死」
どこがだ。とわたくしは思った。
自殺は自殺だ。
自殺した時点で、平常心は喪われている。
須原には、「己の死はそこらの自殺とは違う」という意識があるようだが、残念ながら

そこに高潔な死も卑小な死もありはしない。

魂の乗り物としての身体を粗末に扱ったものとしての記号=自殺者という統計に計上されることに変わりはない。

大体、武士道に自殺を奨めるような記述などない。
有名な言葉に、「武士道は死ぬことと見つけたり」というのがあるが、これが蓮如上人の「白骨のご文章(注1)」の言い換えであることは、「葉隠」をきちんと読んだ上でなら明白なはずだ。
自ら死ぬことの道理を説いているのが武士道なのではない。
武士という生業についているのであれば、いつ死ぬことがあってもやり残したことがないように、常に全力で生きよと説いているのが武士道なのではないか?
また、こういう読み方もできるだろう。
武士道は、バーチャルな死を先取りする哲学だと。
死んだ後の自分を定点として、そこから過去を俯瞰するような精神のありようで生きることができるのであれば、どのような事態が起こっても、意識の中での時系列は「過去」になり、過去に起こったことと意識する以上、そこにはリアルな動揺はなく、常に平常心で生きられるのではないか?
なぜなら、「死後の世界」は常に、今生きている自分の先にあるものだから。
人生の到達点は、言うまでもなく死である。
死後の時間から「今」を俯瞰するということは、未来から現在を眺めるということである。
現在は決して未来にはなりえない。
未来とは、未だ起こっていないこと、これから起こるであろうことを指すのであるからだ。
未だ起こっていない時間から自分を、今を俯瞰する。そのどこに、自ら死ぬことを指すロジックがあるというのか。
武士道は死を希求する哲学とはなりえないのだ。
須原はそれを意識的に読み違えているとしか思えない。
わたくしは、文章に須原の病的なまでの死への依存を見る。
特攻隊の美学や、三島由紀夫の市ヶ谷での割腹自殺の過剰な美化は、自死への執着が生み出したものとしか見えなかった。
執着で聞こえが悪ければ妄執と言い換えてもいいが、どちらも須原は否定するだろう。

須原は、悲惨に死んでゆく(であろう)老いた己の幻想から逃れられなかった。ただそれだけのことだ。

わたくしは高齢者施設に勤務している関係上、様々なお年寄りに出会う。
須原のいう「悲惨な自然死」が現実であるというならば、なぜわたくしが出会う高齢者には素敵な笑顔の方が多いのだろうか?
天寿を全うして、わたくしたちの前から去ってしまわれる方は毎年複数おられる。
病院のベッドで最期の時を迎える方もあれば、ご自宅でご家族に見守られながら…という方もいる。
残されたご家族から、「眠るような最後でした」という言葉を聞くことがある。
その方々の最期が悲惨だなどと、いったい誰が断言できるのか。
そんな権利は誰にもない。須原にも、わたくしたちにも。
それとも、東京都の東の一部だけに、「悲惨な自然死」が存在しないユートピアが存在するとでもいうのだろうか?

そんなことはあるわけがない。

死者に鞭打つ気は毛頭ないが、わたくしは身内を「悲惨な自然死」で見送ったものとして、須原に反論せねばならない。
「死ぬ瞬間」で有名な精神科医キューブラー・ロスを、須原は酷評している。
死の直前にあってなお、ロス自身に死の受容ができていなかったというのがその理由だが、読んでいて吐き気を催すような内容だった。
(ここに引用するのも怒りが蘇るので、興味のある方は一読されたし。無責任で申し訳ない)
須原のご母堂は、ロスの言う5段階を経て死に至ったという。
だが、妻の父の死に関し、須原は「神も医者も親族も本人も完全に無責任な体制での死」という表現を採用している。

ここに、須原の考えを読み解くカギがあるとわたくしは見ている。

須原は、死者はその死の当事者であるとともに、死者の周囲にとっては、その死をめぐる物語の重要な登場人物であるという視点を、ごっそりと欠落させている。

確かに死は、他者に代わって貰うこともできなければ、逆に誰かの死を肩代わりすることもできない。
だが同時に死は、当事者だけでは完結できない事象でもあるのだ。
その死を認知する他者があってはじめて、ある人間の死という事件はあきらかになる。
「死者を認知する他者」の存在しない死はありえない。
行方不明者は、その死体が発見されるか当事者が生きていることが確認されるまでは、あくまでも「行方不明者」でしかないことでもそれはあきらかだ。
言い換えれば、死にさえもコミュニケーションはついて回るということだ。

自死を選ぶ人には、その視点が欠落している。
誰かを永遠に喪う瞬間は、周囲の人間にとっては事件なのだ。
死という事件は、当事者の体内における生命活動の停止としてのみ起こるのではない。
周囲を含めた場で起こるのだ。

わたくしの父は、脳梗塞で倒れ、食物の経口摂取ができなくなり胃ろうを造設した。
なおかつ彼は、歩くこともトイレで排泄することもできない状態で1年半を生き、記憶野が破壊され、今がいつかも理解できなくなって最期を迎えた。

それでもわたくしは、生きていて欲しかったのだ。
自死しないでいてくれて、最後まで生き抜いてくれてありがとうとすら思ったのだ。
それがわたくしの、父の死をめぐる物語なのだ。

父は積極的に死ななかった。
医師は積極的に父を殺さず、最期に呼吸が止まる瞬間に立ち会い、臨終を宣言する大役をつとめてくれた。
わたくしも父を積極的に殺さず、口を塞いだり点滴に毒を詰めることもなく、最期に立ち会った。
最期を看取るということは、そのひとの死という事実を、本人以外に最初に引き受ける大役を仰せつかるということだ。
それでも須原はこれを、無責任な体制の下での死と呼べと言うのか?

そんな哲学は、承認するわけにはいかない。

須原の理論では、周囲に「死にゆく物語」を作ることを許さない。
彼は首を吊り、頸動脈を掻き切るという死に方を選択した。
つまり、彼の家族にとって彼の死は、「突然現れた血塗れの首吊り死体」から始まったのだ。
家族は、周囲は、突然日常にぽっかりと穴が開いた状態を余儀なくされるのだ。
非日常的な光景は、長くトラウマとなる。
須原は目論見通り死ねて満足だろう。
だが、家族はどうなのだ?
なぜ須原は老いてなお生きることを拒んだのだ?
そうまでして、若くあり続けたかったのか?

人間は、他者とかかわらずに生きることはできない。
もしできるのなら、それは「ヒト」という生物にすぎない。
他者とかかわらずに生きられないということは、他者とかかわらずに死ぬこともできないということだ。

なぜ人間に言葉があるのか。
それは、他者と交換するためだ。
何を?
言葉を。
感情を。
愛を。
コミュニケーションを。
そしてわたくしは、死もまた何らかの重要な贈与であり交換であると考える。
死におけるコミュニケーションを拒否した須原からでさえ、こうして何らかを学べるのだから。

最後に、須原が最も欲しくないであろう弔辞で今日の文章を締めくくる。

「哲学者」、須原一秀氏のご冥福をお祈りします。
あなたには長生きしてほしかった。
そして、もっと本を書いてほしかった。
そうすれば、読者とのコミュニケーションがあなたを自死には誘わなかっただろう。
それともやはりあなたは、他者を拒絶し、孤高の魂のままで逝っただろうか。



注1・白骨のご文章

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻のごとくなる一期なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず、一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。吾や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬればふたつの眼(まなこ)たちまちに閉じ、ひとつの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)の装を失いぬるときは六親、眷属集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり。

浄土真宗・蓮如上人のお言葉。
父を真宗式で送ったので、お通夜でこのお言葉を聞きました。
ああなんて「無常」という単語を美しく表現されるのだろうと感動したのを覚えています。


参考文献
自死という生き方 覚悟して逝った哲学者
(須原一秀 双葉社 2008 ISBN 978-4-575-29998-4)
死と身体 コミュニケーションの磁場
(内田樹 医学書院「ケアをひらく」シリーズ 2004 ISBN 978-4-260-33366-5)
posted by 夕顔 at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月16日

カイロプラクティック

書き始めたら同じ日に2エントリアップですか(呆)
相変わらず手加減のできない夕顔でございます皆様こんばんは。


♪足痺れる 手も痺れる 肩こり頭痛は当たり前
目がかすむ 耳鳴りする 目眩で毎日ぐーるぐる
朝起きて 駆け込みで 30分ちょっとの通勤路
隙間がねえ 吊革ねぇ マジで身体が潰される!

突然ですが、わたくしは↑というような通勤事情に5年ほど耐えておりました。
おそらくもともとかなり骨格が歪んでいたものと推察されるわたくしの身体にとって、
上記のようなラッシュは更なる歪みをもたらすものであったことは想像に難くないわけでして。

ことに今年春以降にいたっては

♪湿布効かねぇ 電気効かねぇ 整形外科医もさじ投げた
腰痛は あるけれど レントゲン撮っても異常なし

という状況まで追加されておりました。
(あ、今更ですが、吉幾三氏の「あの名曲のメロディ」で読んで頂きたいなー)

で、藁にも縋る思いで、最寄り駅近くに開業したばかりのカイロプラクティックの治療院に行きはじめたのが5月末のこと。
ここ数年、腸骨(骨盤)が歪んでいることの自覚だけはあったのです。
具体的に言うと、左側の腸骨稜だけが前方に飛び出たようになってまして。
何が困るかというと。
スカートをはくと、回っちゃうんですよ。
いや、わたくしはかなり肉付きがいい(←控えめな表現)んですけど、スレンダーでスカートが回るとかじゃなくて、骨ごと身体が歪んでるから、だからスカートが回っちゃうんですね(汗)
さらに、足の長さも左右で違ってしまうため、ズボンも片方だけ裾が傷む傷む。

問診では笑顔のあった先生、触診が始まるとあまりの酷さにか絶句。

あのぅ夕顔(仮)さん…
「酷いですよね?たぶん」
いや、なんというかその
「胸椎はまあましだと思うんですけど、腰椎とかぼろぼろじゃないですか?」
いや、あの
「何でしょう?」
…胸椎のアーチ、消滅してますよ…
「……(滝汗)」

いまさらですが、脊椎の解剖を少々。
7つの頚椎、12の胸椎、5つの腰椎、5つの椎体が癒合している仙椎(仙骨といいます)、4つの椎体が癒合している尾椎(尾骨といいます。尾てい骨ちゅーのは俗称です)をあわせて脊椎と呼びますが、これらは直線的にではなく、緩やかにS字カーブを描いてつながっており、それによって体重の負担や外部からの衝撃を緩和する構造になっています。
正常な人体であれば、胸椎は後彎(身体の後面にむかってカーブを描いていること)しているはずです。
そのカーブが消滅しているということは、その上下に連続する頚椎、腰椎が、胸椎の分も負担を引き受けているということです。

…なんか、聞かなくても、どんな状況か想像がついてきた。

骨格歪んだ状態で、て○みんとかナチュ○ル○テーションとか行っても無駄だわ、確かに。
凝りを一時的にほぐしても、結局また歪みに引っ張られるんだもん。
そして整形外科的にも、折れてるとかヒビ入ってるとか靭帯伸びてるとかじゃない、要するに治療の対象になってるわけじゃないもんなぁ。

結局わたくしの身体は、腰椎頚椎に多大なる負担がかかっていることが判明。
具体的に言うと、胸椎3〜12がカーブを失っているため、それを代償するために胸椎1,2が急激に前に倒れ(一応、後彎つーのか?)、それに連なる頚椎は椎間板が潰される寸前の勢いで前彎(前側にアーチを描くこと)していると。
腰椎も派手に歪み、これが腰痛の元だったというわけで。
そして、予測どおり腸骨は歪みまくり、おかげで仙骨もねじれる様に歪んでいたと…よく生きてるなぁ、わたくし。

で、施術。
バキバキと小気味いい音を立てて脊椎を矯正するってのを想像していたんですが、わたくしの場合、歪みが酷すぎるので初回からバキバキは無理とのこと。なんかちょっと残念。

軽く1時間ほど、ほぐしてもらいました。
きついのはやっていないとのことでしたが、それでも視界が明るい!
なんか神経つながった!!って感じ。

そんなわけで、それから毎週欠かさずに行ってます、カイロ。
おかげで首が少し伸び、首の皺が消えました。バンザイ。

すっかりカイロ信者(?)と化しているのですが、ひとつわからないことがあります。

それは、「整体とカイロの違いって、何?」ってことなんですが。
どなたかご存知の方いませんか?
posted by 夕顔 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近況報告

ほぼ一年ぶりじゃん更新…

一年たったんだ、なぁ。




いろいろありすぎの一年でした。

なんかぜんぜん頭が整理できていないので、つらつら書いてみます。
ものすごく読みづらい文になると思いますので最初に謝ります。ごめんなさい。

1・いろいろの内訳。

母が倒れたり。
父が鬼籍に入ったり。葬儀があったり。
子供が中学生になったり。
するするといいながら離婚がなかなかできなかったり。
実家が県営団地で、返還がオオゴトだったり。

2・いろいろの詳細。

(1)父に関して。
父は3月の最後の日に鬼籍に入りました。
脳梗塞で倒れ、経口摂取ができず胃ろうになり、リハビリも拒否して寝たきり生活に入った段階で、ある程度覚悟はしていました。
それでも、生きてて欲しかったですけど。

(2)で、母は。
母は昨夏、熊谷市が日本最高気温を更新したあの日に熱中症で倒れ、それ以降認知症の症状が顕著になりました。
ガスの火をつけたままほったらかすというデンジャラスなお約束をやらかし、腐ったものとそうでないものの区別がつかず腹を下し、夫(父)が浮気をして若い女のところに通っていると言い張り夜中に泣いて電話をよこし(とーちゃんは入院中だっつの)…などなど。
そして9月末。
家の中に盗賊団がいるという妄想に取り憑かれた母は、一日に何度も警察を呼び、警察官が来たら来たで「知らない男が家にいる!」とパニクりわたくしの携帯に連絡をよこし、目を離すと実家の前を通る国道の真ん中にふらふら出て行くという状態を呈するにいたりました。
長年患っていたパーキンソン病の内服薬が変更された直後に幻覚妄想が悪化しているので、認知症の症状というよりは、薬の副作用だったのかもしれませんが、とにかく母に在宅で生活させることは事実上不可能になり、施設入所の運びとなりました。

母は入所。父は入院。

仕事が終わったら母の顔を見に行って父の病院に寄り洗濯物を回収する、という生活が、半年続きました。
兄弟でもいればよかったんですけど、生憎わたくしはひとりっこです。
過ぎてみればたった半年でしたが、永遠にも思えた半年でした。
(もっと長年介護に看護に明け暮れている方は山ほどいらっしゃいますよね。みんな、身体を壊さないでくださいね)

(3)父の葬儀とそれにまつわる馬鹿話。
葬儀では、状況からわたくしが喪主になりました。
その席で、戸籍上の配偶者がいろいろやらかしてくれました。
通夜開始直前に祭壇に子供と並んで記念撮影とかもうね、アホかと。馬鹿かと。
子供は嫌がってるしわたくしも激怒しているのに
「記念なんだからさ」とか、それが48にもなった男の言葉か。どこが記念だバカタレ。親が死んで記念もへったくれもあるか大馬鹿者。
怒り狂った挙句、危うく喪服で回し蹴りを繰り出す寸前でした。

実は、これには更なる後日談があります。
父のお骨は、わたくしの家に仮置したのですが。
中陰壇の線香に、配偶者君は「不○家のケーキについてきたローソクの燃え残り」で火をつけやがりました。
ええ、中尾彬のねじねじばりにひねりの入った、カラフルにビタミンカラーなアレです。
仏壇用のローソクをちゃんと買ってあるのになぜそういうアホなことをする?と思うのですが、配偶者君いわく
「買ったローソクを使うのはもったいないからリサイクル」だそうで。
供養にリサイクルとか、意味がわかりません。
つまりわたくしの父親は、供養に新しいローソクを使う価値なしということですか、そうですか。
(でも、リサイクルとかそんな話は、絶対後出しに違いないですけどね。だって、ご丁寧に息子に口止めしてるんだもの)

ここにいたって完全にぶちきれたわたくしは配偶者君に離婚を請求いたしました…って5年も前から離婚してって言ってるんだけどね。

それに対する配偶者君の言い分の要約。
「たぶん自分の親に対してでも使用済みローソクで線香をあげる。だから、君の親だからという理由でしたわけではないし、そもそも嫌がらせでもなんでもない。ごくごく常識的なことで、それに対してこんなに怒る人がいるとは思わなかった。だがそれほど怒るということは、おそらく自分が何か間違ったのだろう。離婚は、応じてもいいが、今すぐはできない。自分は家庭科を小学校しか教わっていないので、料理も洗濯も満足にできないから」
とのこと。

いろいろあって、離婚については現在も協議中。
概ね、離婚は避けられないということで基本合意は得られているのですが、条件面がなかなか折り合いません。

(4)父亡き後の実家の始末。
実家は県営の団地でした。
父が亡くなったということに加え、母も自宅での生活が不可能になったので、公社に返還せざるを得なくなったのですが…
二人暮らしだったというのに、何であんなにモノがいっぱいあるんだか!!
返還期限が近づいても、片づけが遅々として進まず、ほぼお手上げ状態。
そんなときに思い出したのがこちらのブログの会社。
以前にトラックバックして頂いたことがあり、それからちょくちょく拝見してたのです。
で、遺品整理と処分を一緒にお願いできるということで、実家の片付けを依頼することにしました。
当日現れたスタッフの方々は、見たところ皆さんまだ「若者」。
でも仕事はプロでした。
どう仕分けたらいいか途方にくれていた大荷物たちが、あれよあれよという間に片付いていくさまは、感動モノでした。

キーパーズ東京支店の皆様、その節はお世話になりました。
おかげさまで無事に片付けも終わり、本当に感謝しております。
今後の皆様のますますのご活躍をお祈り申し上げます。



とまあ、そんなこんながありました。
久々に、仕事以外で文章を書いた気がします。

次の更新はいつになるでしょう…(←さっさと書け馬鹿者)
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2007年03月28日

機能不全家族

なんてこった。ネタ寝かせてたら熟成通り越して腐ってますよ奥さん。
相も変わらず浮世離れしてるらしい夕顔でございます皆様コンバンハ。

テレビドラマってどうも好きじゃなくてあまり見ないんですけど。
原作をたまたま読んで知ってたのと、最終回の日の昼日中、これでもかと流れる番宣に半ば乗せられる形で見てみましたよ、ええ「華麗なる一族」最終回を(笑)

どう見てもロボットです本当にありがとうございましたとしか言いようがない巨大錦鯉とか、猟銃自殺なのにやたらと原形とどめてるキムタク@鉄平の遺体とか、(予想通り)突っ込みどころ満載だったわけではあるんですが。

劇中の北大路欣也@万俵大介のセリフに、こんなのがありました。
「お前も苦しんだのだろうが、私だって苦しかったんだ」
細かいディティールはちょっと違うかもしれませんが、まあこんな感じで言ったその相手はキムタク@鉄平、つまり長男ですな。

…ちょっと待て。

確かにどうしても対立してしまう悲しい親子という設定ではあるけれど。
原作もドラマも、その対立があってこそ成り立ったドラマではあったけれど。

…それ、親が息子に言うセリフじゃねえだろ(怒)

ロボ怪魚の胡散臭さについて、あれは絶対にハリウッドに技術協力を求めるべきだったぞという内容でブログを書こうと思っていたわたくしの決意は、そのセリフひとことで吹っ飛ばされました。

アディクション関連の書籍、とくに家族機能について書かれた本に縁のない方々であっても、あの「華麗なる」家族・万俵一家に関して、「まっとうな」とか「ごく普通の」という形容詞を冠したいと思われる方はいないと思います。

父親が息子を自殺にまで追い込む冷酷さ。
愛人を公然と同じ屋敷に住まわせる無神経さ。

もうね、万俵大介氏をこう、目の前に正座させて説教したい。
問い詰めたい。お前は父親の役割判ってるんかと、父親って単語を知ってるだけで意味知らないのと違うんかと小一時間問い詰めたい。

家族関係の本によれば、ああいう家族を一言で表現すると「機能不全家族」という言葉が選択されます。
個人の拠りどころとしての機能を失った家族という意味です。
アダルトチルドレンを生み出す温床でもあるこの機能不全家族ですが、実際のところ、機能を全うしている家族ってのはどのくらいあるんでしょうね。逆に聞きたいんですけど。

あのドラマほどドロドロしてしまうと現実味がないと思うんですが、なんせほら、財閥だし。
経済力のスケールが違うから、万俵家で起こることはケタ違いな事件ばかりだったのでしょう。
庶民的なところでも、仕事最優先で家族を顧みないとか、自分の欲のために他の家族の人生を侵食するとか、そーゆー事例ってけっこうありますよね。
わたくし達小市民が「華麗なる一族」にならないですんでるのって、ひょっとしてお金がないからかもしれませんね。
なんて思ってちょっと(逆の意味で)優越感に浸ってみたりする(笑)

ああなんか意味不明になってきた。今日はここまで。
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2006年11月15日

離婚の是非

世の中には両親が離婚したために不幸な子どもがたくさんいる。
だが、両親が離婚しないために不幸な子どもも、同じだけいるのだ。
(Erich Kästner)


嫁いだからには相手の家の流儀に従うが吉とお考えの方は多いことでしょう。男性でも女性でも。
それはある意味、軋轢や衝突を避ける先人の知恵なのでしょうが。


人格も尊厳も踏みにじられてまで従うだけの「理由」が、わたくしにはどうしても探せなかった。


旦那は自分以外の価値観を認めませんでした。
わたくしが旦那と違う考えを持ち、違う人格を持ち、違う生命を持った人間だということを、最後まで認めようとしませんでした。

結婚当初、旦那にとってわたくしは、常に旦那を立てて行動し、文句を言わず、どんな安月給でもやりくりして貯金までする良妻以外では存在を許されませんでした。
そして子供は、父親の思い通りに行動する以外では存在を許されませんでした。

正直に申し上げますが、旦那の月収12万で住宅ローンと育ち盛りの子供二人抱えて貯金までしろというミッションは、わたくしには遂行不可能な課題でした。

…ローンだけで8万近いんだぞ。霞喰って生活しろとでも仰るおつもりか(笑)


更に言うなら。
わたくしには、自分の意見と違う考えを容認することまではできても、己の意見を全否定された挙句、旦那の意見に沿ったことのみを夫婦間の合意事項として振舞うことは、たとえ百万歩譲ったとしても不可能でした。

わたくしにとってラッキーだったのは、皮肉にも旦那の給料の安さゆえに、仕事に出ざるをえないという大義名分が罷り通ったことでした。
実際のところ、わたくしは食うために仕方なく働きに行ってたわけではなく、働きたいから働いていたわけではありますが。
ともあれ、そうして家の中だけに閉じこもらないで済んだおかげで、わたくしはこうして自殺もせずに生きていると言っても過言ではないのです。


わたくしは旦那とは異なる、独立した人格を持ったひとりの人間である。
12年間、わたくしが彼に伝えたかったことはたったこれだけです。
たったそれだけの事実を認められない男など、わたくしの今後の人生には不要です。

わたくし夕顔は、旦那のマニピュレータではありません。
そして当然、旦那もわたくしのマニピュレータではありません。
精神的な連帯感もなく、ただ一緒に暮らして、旦那に作れないからといってわたくしが食事を作り、(旦那曰く)わたくしが忙しいからと旦那が特売情報を調べて買い物に行く。

それだけで夫婦か?
それだけで伴侶か?

精神的にはいつも孤独であったとしても?

作業の分担をするだけで夫婦だ伴侶だという条件を満たすのであれば。
わたくしはHONDAにお願いしてASIMOを売ってもらい、それを夫と呼びたいです。
いっそ機械ならば、理解も共感も求めないで済む分、気が楽です。


デパ地下やスーパーの惣菜だけがテーブルに並ぼうと。
特売なんか行ってくれなくても。
お互いがお互いの半身であるかのような一体感、この人は自分を受け止めてくれるという絶対的な信頼感を持てるのならば、そのほうがよほど夫婦と呼ぶにふさわしい姿だと思います。



旦那の思い込みの影響は子供にも及んでおり、それはもはや無視できないレベルの「悪影響」となっていました。
前述したとおり、旦那は「子供は親の思い通りに成長し行動するもの」と決めつけてかかっており、子供が自分のいうことを聞かないと恫喝する人でした。

子供たちにとっては恫喝が日常化していました。
あまりにも日常過ぎて、それが虐待に値するものだということすら、彼らは知りませんでした。
旦那は、それらのことを無意識にしたのではありません。
わざわざ子供に「ママには言うな」と口止めをしていた事実からもそれは明らかです。
「言ったらパパには判るんだからな。そしたらどうなるか判ってるんだろうな?」って50に手の届く男のセリフかよ(いじめをする中坊かあんたは)。
もはや言うべき言葉も見つかりません。
もちろん、気付かずにいたわたくしの迂闊さが一番大きな罪であることは言うまでもありませんが。

苦痛を苦痛だと言語化していいんだと悟った上の子からの訴えで、遅まきながらその事実をわたくしは知りました。


なんという卑怯な男か。

なんという卑小な男か。


わたくしさえ我慢すればとか、既にそういうレベルの話ではありませんでした。


離婚の是非は、当事者にしかわからないことが多々あります。
勿論、それを以ってすべての免罪符にせよと申し上げるつもりは毛頭ございませんけれどもね。
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2006年10月24日

Go ahead!

10月22日 日曜。

12回目にして最後の結婚記念日が、終わりました。



12年という月日が、長かったのか、短かったのか。
それはこの先になってみないと判りません。

これから、楽な人生ではないでしょう。
子供から父親を取り上げるわけですし、どんなに頑張っても我が身はひとつしかない。
できないことも多々あるだろうし、子供には本来ならしなくて良い我慢を強いるかもしれない。


それでも、進むしかない。

前に、未来に。


迷いながら、進め。

Go ahead!
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2006年09月21日

カウントアップ

幸せを数えたら片手でも足りないのに不幸せを数えたら両手でも足りねーぞゴルァ!!ってカンジの歌謡曲(←既にこれも死語?)が大昔にありましたけど。

幸せって、よほどのことじゃないと記憶に蓄積されないのかもしれませんね。

不幸せは、つまり不快な記憶。
自己同一性とか、安心とか、プライドとか。
大袈裟に言っちゃうと、己の根幹をなすものを揺さぶられ傷つけられた体験だからこそ、心に、記憶に残るのではないかと。

ただ、不快な記憶を与えた側は、そんなに重大なことだなんて認識していないことが殆どだったりしますけど。


たとえば。

「ある事態」に遭遇したとします。
第三者的(客観的とか真実とかの言葉は使いません)に見て事実はひとつかもしれません。
でも、それを受け取る側は誰もが同じ反応をするわけではない。

ポジティブシンキングって流行ってますけど、己にとって不快なものを無理矢理良い方に考えるのって、それ自体がストレスフルな作業だと思うんですけどどーなんでしょーかね。

物事をあんまりネガティブに考えるのはよくないよって論調は、まあ確かにわかる。
ネガティブシンキング(今捻り出した造語ですけど)の告白は、聞いていて胃に鉛を詰め込まれたような重苦しさを覚えますし(笑)

かといって、人間そうそうポジティブでもいられない。


わたくし、人から親切にされるとその裏を考えてしまうところがあります。
それはまあ、言葉に二重の意味を持たせるような人と長年付き合った結果だろうと自己評価しているのではありますが。
自己評価したからといって、長年身体に叩きこまれた反応様式は一朝一夕で消えるものではなく。
結果、ネガティブな自分がちょこちょこと顔を覗かせてしまうわけで。

ネガティブなままで良いとは申しません。
ですが、もともとネガティブな思考パターンを持つ(持たざるをえなかった)者にウルトラポジティブを強いたとしても、【ポジティブに考えねばならない】ということが強迫観念となり、却ってプレッシャーになるということだけは、あえて記しておきたいと。

良い方に考えたほうが何事もプラスになる、と【あえて気負わなくても】自然に考えられる人は別にいいんです。
良い方に考えようとしても疑心暗鬼になるとか、どーやってもネガティブに考えてしまう人は、そうなるだけの理由があるはずなんです。
それを一律にポジティブになりなさい、そうできないアンタは人としてどうか…みたいな論調には、どうも胡散臭いモノを感じるんですよね。

うつとか、うつ状態とか。
そんな精神状態が取り沙汰されるのは、ポジティブであることを強要される社会だからではないかと。
ポジティブであろうとしてそうできず、そんな己を叱咤激励するエネルギーが底をついてしまったのが、うつ状態ではないかと。

みんながみんなネガティブだったら、それは非常に鬱陶しい世界だろうと思います。
でも、みんなが一様にポジティブだったら、それはそれで結構キモチワルイだろうなとも思うのです。


誰に迷惑かけるでもないのなら。

不幸のカウントアップくらい自由にさせてちょーだい(笑)



ただし、不幸自慢はやめてくれ(切実)
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2006年08月12日

終(つい)の夏

旧盆を迎え、すっかり暦は秋ですが。
残暑というか酷暑というか。
周囲はまだまだ、暑い暑い夏です。



先日、上の息子がわたくしに言いました。
曰く、「パパはママが夜勤のとき、いつもママの悪口をぼく達に言う」。



これを聞いて、旦那さんに失望したかというとそうでもないんですが(笑)
むしろ、ああやっぱりそうだったんだと腑に落ちたというか。

そして、そういうのを聞かされる事が不快だと息子は言いました。

叩かなくても、殴らなくても。
たとえその言葉が子供に向けられたものでなくとも。

やっぱり暴言を聞かされることは虐待の一種なんだなあと実感した次第。

「じゃあなんでパパはママと一緒にいるの?」と息子が聞いたところ、旦那さんは答えられずに黙り込んでしまったそうで(息子GJ)。

あらためて冷静に離婚を申し入れました。

そうしましたところ。
「そこまでストレスを溜めさせてしまったからには、自覚していなくとも何らかの非が自分にもあるのだと思う」という、判ってるんだか判ってないんだか(どう考えても判ってないが)よくワカラン返事を頂きました。


自覚していなくとも、ってあーた(呆)

少なくともわたくしは4年前から折にふれ、不満も改善して欲しい点も、改善できないなら離婚したい旨も伝えてきましたが何か?
それをいつもいつも黙殺してきた貴方は非がないどころか非の大安売り、完全に非の総合商社化してますが何か?

「夫婦ってのは運命共同体なんだから、いつでも同じ考えで行動しないと」
ってよく言ってたよね、ずっと前から。
そんなん無理だし、だいいち同じ考えっても「俺様の考えに合わせろ」が本音でしょ?

もう、ずっと前に破綻してたんだよ。

気がつかないふりをしてきただけ。


だからもう
「今年はもうそんな気分じゃないだろうから、来年の夏休みはどこかに行こう」
なんてこと、気にしなくていいんですよ。

貴方とはこれが最後の夏。半袖の貴方を見るのはもう最後なんですから。
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2006年07月19日

涅槃寂靜

10の-1乗(小数点第一位ですね)を、分(ぶ)と言います。
10の-2乗は、厘(りん) 。-3乗は、毛(もう) 。
以降、位がひとつ小さくなるごとに、絲(し)、忽(こつ)、 微、繊、沙(しゃ)、塵(じん)、埃(あい)、渺(びょう)、漠(ばく)、模糊(もこ)、逡巡(しゅんじゅん)、須臾(しゅゆ)、瞬息(しゅんそく)、弾指(だんし)、刹那(せつな)、六徳(りっとく)、虚、空、清、浄、阿頼耶(あらや)、阿摩羅(あまら)となります。これ、ほとんど仏典から取られた言葉ですね。
そして10の-26乗が、涅槃寂靜(ねはんじゃくじょう)。これが漢数字で表現される数の単位の最小のものになると思います。

実際にどのくらい小さいのかもう解らない位の単位ですので数字表記してみますね。

0.00000000000000000000000001

もう何がなんだかです(笑)


じゃあ逆に大きなほうはというと、千、万、億、兆、京(ここまでで10の16乗)までは結構一般的じゃないかと思うのですが。
その上、10の20乗が垓(がい)、24乗がシ(のぎへんに予と書く。ジョと読む説もアリ)、以降4乗刻みで穰(じょう)、溝(こう)、潤(かん。門構えの中は月と書く説もアリ)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思(不可思議との説アリ)、そして10の68乗が無量大数。

億だって感覚的には理解できないのに、それ以上の数なんか実感できるわけありません(汗)


「いいじゃんか、『5つ以上は沢山』で」と某友人にメッセンジャーでぼやきましたところ。


「あんたのダンナに対する怒りが無量大数で、残ってる未練が涅槃寂靜だって考えたら解りやすいんじゃないの?」
というご意見をいただきました。


ああなるほど!と膝を打ったものの。


あとになって考えたら、やっぱりよくわかんない夕顔でございます(汗)


まあ、人の気持ちってのも、よく解らないもんだよねと。
解ったような解らないような気持ちではあります。
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2006年07月07日

ハーボットお引越し

以前別名でほーむぺーじなるものを開設していたわたくしでありますが、プロバイダ半強制乗り換えの後遺症でウェブのスペースを失ってしまいました。
で、またあのタグ打ちの日々(わたくしはビルダーのよーな高級なソフトは所持しておりませんので)を繰り返すのもアレだよなというわけで、ついでだからとHNも変え、このブログをはじめたわけなんですが。



ハーボットのことをすっかり忘れていました(汗)



突然思い出してこちらに移住させて来ました。

うちのハーボット。名前は「にゃプチーノ」と申します。
?マークをクリックするとお話しなんかもしてくれる可愛い子です。
夕顔ともどもよろしくお願いします〜。
posted by 夕顔 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月26日

精神的DV2

うちの旦那さんは、DV的な行動をする。
殴るわけじゃないけれど、精神的なダメージは同じだろうと思う。

前回はそれを書きかけたところで友人のケースに遭遇し、激怒したあまり相当アレな内容で書き上げてしまった。
冷静を取り戻す意味でもここらでゆっくり、うちの旦那さんがどういうDV的旦那であるかについて書いてみようと思う。

・・・夕顔さんに冷静さがあるかどうかは別の機会に議論を譲るとして(汗)



旦那さんに対するヨソ様の第一印象は、「やさしそうな人」というのが最も多いと思う。
それに対してわたくしは
「ええ、やさしそうな人なんですよ」と返すことに決めているのだけれど。

結婚して今年で12年になるが、最後に幸せだと思ったのって、いつだろう。


結婚してから8年くらいの間、ずっとわたくしが悪いのだと思ってきた。

家の中の閉塞した空気は、わたくしが悪いから旦那さんがイライラして醸し出されるのだと思ってきた。

思いつく順に、言われて悲しかった言葉を並べてみよう。

「昨日○円安くなってたんだから、昨日買ってよ」
以前にも書いたが、うちの旦那さんは特売となると緊急性がなくても買いに行かないと落ち着かなくなる性格だ。
これはわたくしが悪いのかもしれないが、特売が過ぎた後、たとえばアボカド1個98円という日に買わず、通常価格(近所のスーパーだと大体1個128円)の日に購入したとする。
するとまずはこの言葉が飛んでくる。
今日食べたかったんだから…という理由など言おうものなら
「だからお前はダメなんだ。せっかく節約に協力してやってるのに何でそうやって浪費することしか考えないの?」
と言われてさらに傷つくことになる。

念のために断っておくが、わたくしは節約に協力しろとは一言も言っていない。

「俺は仕事してきてるんだよ。お前夜勤明けで遊んでたんだろ?」
わたくしの職場には夜勤がある。
一晩通しての夜勤なので、一勤務が16時間になる。
そのため夜勤入り(夕方から夜勤になる勤務)の日は昼過ぎまで仮眠を取り、翌日の夜勤明けは、帰宅後夕方まで仮眠することにしている。
いくらなんでも寝なければ身体がもたないからである。
ところが、明けの日に特売があると、旦那さんはわたくしに買いに行けと手紙を残して行くのだ。
正直、きつい。
しかもわたくしにはどうでもいいような物ばかりなんである。
救急搬送があったりして心身ともクタクタの時はもちろん、最近はそうでなくても無視する。
するとこの言葉が飛んでくるわけだ。夜勤明けで遊んでるやつがなんで買い物に行けないんだという論法である。
仮眠だと言っても通用しない。仕事以外は「遊んでいる時間だ」というのが旦那さんの理屈だからだ。

ちなみに旦那さんは、仕事中に特売セールに並ぶ。
それって遊んでるって言うのではないか、と一度聞いてみたところ激怒された。せっかく家庭のために協力してやってるのに恩知らずだ、だそうだ。
買い物で仕事が中断するためいつも納期に追いまくられているが、それは別にどうでもいいらしい。
自分が行くのなら、気前よくわたくしを寝かせてくれよと思う。

「俺はもう40になる。だからもう、なしでいいだろ」
えーと、これが過去最高に悲しかった一言かもしれない。
当時、旦那39歳わたくし30歳。
…30歳ジャストで夫婦生活終わりだって宣言されて納得できるか(怒)
できるわけないが、納得させられた。納得するしかなかった。
コイツが終わりだと言ったら終わりなのだ。
「子供も二人生まれたんだから。世の中には不妊症の人だっているのにお前は二人産めたんだから」と奴は言った。
関係ないだろそれ。実際に不妊症の方が聞いたら激怒するだろう。

そしてわたくしを鬱寸前まで追い込んだ事件がこの一ヶ月後に起こった。

終了宣言を出したにもかかわらず、いきなり手を出してきたのだ。
混乱したわたくしは拒絶した。
何がなんだかわからなかった。

結論から書くと、行為は抵抗むなしく行われ、ありえないことに妊娠した。避妊していなかったわけだ。
そのことを告げると旦那さんはこう言った。それが次の言葉。

「始末して来い」
…ここまで書いて、ああ、わたくし結構がんばったんだなと思った。
蹴りもいれず、復讐もせず、よくここまで耐えたな、と。
当時は耐えている自覚はなかった。
どこの家でも多かれ少なかれトラブルはあるだろう。うちは今それが起こってるだけなんだと、そう思っていた。
いや、そう思おうとしていたんだと思う。

脱線を元に戻すと。
経緯が経緯だから、相当に絶望しながら妊娠検査薬の反応を見つめていた記憶がある。
その段階で妊娠したかもしれないことを旦那さんに話すと
「間違いかもしれないから病院に行け」と言われた。
そして、「本当だったら、始末して来い」とたたみかけられた。

始末、である。
生命あるものに、ましてわが子にこの言葉を選択できる男がこの世にいるなど、わたくしはそのときまで思いもしなかった。
姑にも始末してらっしゃいと言われた。今考えるとこの人も相当なモラ姑だ。

結局、追い詰められたわたくしは病院で手術を受けざるを得なかった。
産みたいなら産めばよかったじゃないかと後に旦那に言われたが、そんな選択肢はなかったのだ。

生命として宿った存在でありながら、子供は誰にも祝福されることがなかった。
そして、手術当日、エコーに子供の心臓の動きは写らなかった。
「この子、心臓、もう止まっちゃってるよ。まあ、することは同じだからね。中絶も流産も」
静脈麻酔を射たれた頭に、妙に間延びした先生の言葉が聞こえたのを覚えている。

手術後、フラフラになって帰宅すると旦那さんは思い切りしかめ面をしてこう言った。
「お前さ、危ないなら危ないって言えよ。排卵日とか判るんだろ、看護婦なんだから」
もう何も言う気力はなかった。危ないって言おうにも、口塞いで言えなくしたの誰よ。
「俺は悪くないぞ。今回のことは危ないって言わなかったお前が悪い。だから費用もお前の貯金から出せって言いたいくらいだ」

心が冷えるって、ああいうことを言うのだろうと思う。
感情がすべて麻痺し、悲しみも殺意も沸いてこなかった。
消えてしまいたいとだけ思っていたのを覚えている。

今はこうして書けるくらい記憶も元に戻ったが、このあと1年にわたってわたくしの記憶は混乱していた。
よほどの否認が働いたのか、強姦まがいの行為も含め、妊娠に関わる記憶はすべて忘れていたのだ。

思い出したのは1年後。この旦那さんの言葉によってである。

「もう一人作るか?」
1年後、引越しして今の家に移り住んだ。
引越し当日の夜に、旦那さんは上機嫌でこう言ったのだ。

…おかげで全部思い出してしまった。



…ちょっとフラッシュバックで気分が悪くなってきた。
続きは、また今度。
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2006年06月25日

大本営発表

今更ながらワールドカップ日本代表の話。


どー考えたって世界各国との力の差は歴然としてたのに、開幕前の各メディアの報道っぷりってどーよ。



井沢元彦の各著作をあえて引用するまでもなく、日本人は言霊思想に支配されている。

ジーコジャパンにワールドカップ予選リーグを勝ちぬく力はない。
開幕前にそう言った者には、おそらく「縁起でもない」とか「そんなことを言うなよ」という批判が集中しただろう。


敗戦と発せられた言葉との間に何ら相関がなくても。


オーストラリアに負け、クロアチアに引き分けた時点で先は見えていた。
だけど。
奇跡を信じて、だの、決勝トーナメント進出に望みをつないだ、だの。
およそ紙面に踊る言葉はウルトラポジティブなものばかりだった。

負けると言って、負けをそのせいにされることを恐れたのかもしれないが。



六十数年前の大本営発表と何か差はあるか?

敗走を転戦と言い換え、討死を玉砕と言い換えたそれと、何か差はあるか?

日本人に言霊思想がある限り。
言った言葉に呪力があって、それが結果を規定するという迷信が消えない限り。



大本営発表は続くんだろうな、この先も。
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