2012年03月13日

四万川リハビリテーション5〜湯立神事と暴れ川〜

湯立神事は、四万温泉発祥の地とされる「御夢想の湯」前で行われます。
yutatesinji2.jpg
四方に青竹を立て、注連縄を張って結界と成すスタイルは、家を建てる際などに執り行われる地鎮祭に似た体裁です。
八脚台を並べた中央に神籬(ひもろぎ/神の依代とされ、通常は榊の大枝に御幣や木綿をつけたものを使う)が置かれているのも、神籬の周辺に神への供物が置かれているのも、やっぱり地鎮祭スタイル。
というかこれ、神社本殿で執り行われる以外の神事の基本スタイルなんでしょうか。

ひとつだけ違っていたのは、神籬が榊ではなく杉であったこと(四万は北関東のさらに北部だから、榊の生育できる北限を超えたのかなぁ?)。
yutatesinji.jpg
神事の最後に、大釜で炊いた「御夢想の湯」源泉の湯を湯笹で参拝者にふりかけることで神仏の心をいさめ、災いを取り除き、無病息災を祝うのだとか。

そして戴いてきました、湯守!yumamori.jpg

最後の最後に、まんじゅう争奪大バトル大会(当たりくじ付きまんじゅうが温泉協会の皆さんから投げられる。大当たりは、「豪華四万温泉ペアご招待チケット」!)が行われ、せっかく神事で清められた空気もどこへやら、あさましくもいみじうをかしき光景が繰り広げられたのでした。
いや、この手の雑多さがあってこそ、ジャパニーズ・マツリ。私は大好きですよw

四万温泉は、伝説史実織りまぜた歴史の宝庫です。


さて。本命。
<ダム愛好家と砂防ダム愛好家の方へ>

四万温泉は室町からの長きにわたって人々に愛されている温泉です。
その源泉は、日向見地区と山口地区の一部の源泉以外は四万川の河床にあります。

ということは、なにが起こるか。

源泉が川にあるということは、風呂は自然、川に近いところに作らざるを得ない。
風呂を川の近くに作るということは、宿もまた川の近くにならざるを得ないということです。

群馬を流れる大河といったら利根川ですが、この利根川は古くから暴れ川として有名です。
四万温泉の源泉がある四万川は、吾妻川を経て利根川に流れる、いわゆる二次支川です。
そして四万川もまた、古くから暴れ川であったのです。


四万川が氾濫するたび、洪水被害を受け続けた地域がありました。
四万川は中之条の川です。
でも、中之条の中で、その地域だけが四万川の洪水の洗礼を受け続けました。

以下に、昭和以降の被害だけを連ねます。

昭和10年(1935年)9月。
台風2号による豪雨は群馬県全域に大被害を齎し、県下の死者は218名を数えました。
負傷者190名、行方不明者は39名。家屋全壊467戸。家屋流失859戸。家屋半壊460戸。床上浸水4011戸。床下浸水13320戸。
烏川、吾妻川の流域では実に8000ヶ所もの山地崩壊を引き起こし、後に烏川災害と呼ばれるようになったこの災害は、利根川砂防工事の契機となりました。
いわば砂防マニアが押さえておかねばならないターニングポイントでもありますが、烏川災害という名の陰に隠れたもう一つの顔があります。
64/218。
群馬県下の全死者218名のうち、実に64名は四万川の氾濫による死者なのです。

昭和22年(1947年)9月。
台風9号(いわゆる「カスリン台風」)。
利根川下流の埼玉県栗橋町(現・久喜市)において利根川の堤防が破堤、首都圏が水没したのはあまりにも有名ですが、この時、四万川も氾濫しました。
昭和23年(1948年)9月。
北上川上流改修計画の見直しの元になった台風21号(アイオン台風)による洪水。
昭和24年(1949年)9月
渡良瀬川の堤防決壊を招いた台風10号(キティ台風)による洪水。
昭和25年(1950年)9月
すぐあとにできた台風10号との相互座用で、南の海上を迷走しまくり、大雨を齎した台風9号(ヘリーン台風)による洪水。
昭和29年(1954年)9月
有名な洞爺丸台風(昭和29年台風14号)の直前に来た台風13号による洪水。
昭和40年(1965年)9月
琵琶湖洗堰を全閉にするほどの大雨を降らせた台風24号による洪水。
昭和41年(1966年)6月
栃木・那須野が原の木ノ俣隧道事故(注1)の遠因となった台風4号による洪水。
同年9月
直後に発生した台風26号との相互作用で大変な雨台風となった台風24号による洪水。
昭和56年(1981年)8月
同じ群馬県内で吾妻川に架かる三原大橋(嬬恋村)が落橋、県下で死者も発生した台風15号による洪水。
昭和57年(1982年)8月
台風10号による洪水。(注2)
昭和63年(1988年)8月
豪雨による洪水。
平成元年(1989年)7月
豪雨による洪水。

昭和年間のこの氾濫っぷり。
62年+2週間(昭和元年は12月の最終週のみ、昭和64年は1月の第一週のみしか存在しない)で12回。
約5年に1回の割合で洪水が起きていた計算になりますが、その地区はずっとその水害を甘んじて受けざるを得ませんでした。

執拗なまでに四万川の氾濫にさらされた地区。

その地区の名を、四万温泉といいます。




注1:那須野が原扇状地を流れる用水路の一つに、新木ノ俣用水がある。
那珂川水系木ノ俣川に設けられた新木ノ俣頭首工より取水する用水路で、明治26年(1893年)に灌漑用水として開削された。
昭和41年台風4号による大雨は、新木ノ俣用水の増水を招き、上流部の水路トンネル、木ノ俣隧道の内部の土砂の崩壊をも引き起こし、水が下流に流れなくなる事態になってしまった。
那須野が原は複合扇状地であり、この地域を流れる一般の河川は地下深くに伏流し、洪水時しか水を流さない水無川である。
つまり用水路が閉塞したからといって、おいそれと代替の水源が確保できる土地ではない。
時は6月末。田畑を潤す水が農業上大変重要な時期。
地元住民は復旧のため、60人ほどの有志で木ノ俣隧道の土砂を取り除く作業を始めた。
しかしその作業中、隧道内に持ち込まれた発電機(照明の電源)の排気ガスによる一酸化炭素中毒事故が発生。
隧道内であること、そもそもその隧道が山中にあったことなどから救助が難航、25名の死者と、少なくとも17名の重軽傷者を出した、那須野が原の農業史上最悪とも言われる悲惨な事故である。
事故現場となった水路トンネルは大正時代に掘削されたものであり、老朽化が著しく、改修が予定されていたところにこの事故が起こってしまった。
この事故が契機となり、翌年から予定を前倒しして始まった国営那須野が原開拓事業により、新木ノ俣用水は那須疏水、蟇沼用水、旧木ノ俣用水などとともに改修され、那須用水の一部になった。
これにより流路も若干変更され、木ノ俣隧道は現在使用されていない。

注2:昭和57年は冷夏で、梅雨明けも遅れた。
7月23日には低気圧と梅雨前線の影響により、九州で豪雨となった。
昭和57年7月豪雨は長崎大水害とも呼ばれ、この時に観測された時間雨量187mmは日本における時間雨量の歴代最高記録である。
昭和57年台風10号は全く空気が読めない奴だったらしく、よりにもよって長崎大水害のその日に発生、最低中心気圧900hpa、最大風速65m/sにまで成長し日本に迫ってきた。
さすがに8月2日の日本上陸時には970hpaまで勢力は衰えたが、日本中に大変な大雨と暴風の被害を発生させ、東海道本線富士川橋梁(下り線側)は橋脚が流され倒壊した。これにより東海道本線は75日間にわたり不通になった。
三重県内では国鉄(当時)名松線が全線不通となるほどの大被害となった。最も深刻な被害を被った伊勢竹原〜伊勢奥津間が復旧したのは、翌昭和58年6月のことである。
長崎大水害と台風10号による死者は全国で400名を越えたという。


posted by 夕顔 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(1) | ダム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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